軍議の後、ボロ雑巾になるまで書物を読まされ、頭に入っているか確認も兼ねて紅明相手に説明をさせられ、紅炎の指示により紅覇にもこれからトラン語を教えるよう言い渡され紅覇の部屋にて講義を行い、部屋に戻る道中懲りずにまた水を掛けられそうになるのを回避して漸く戻ってした自室。珍しく今晩の予定は無い。紅明は次の侵略計画を纏め、紅炎は子作りに忙しいらしい。久々に安らかに眠れる夜に感激したのは二人に予定がある事を知ったつい先程だ。


「答えは決まっているけれど、あえて選択肢をあげよう」


自室には以外の人の気配は無い。つまりこれは誰かに話しかけている訳では無く、唯の独り言に過ぎない。深く腰掛けた椅子の背凭れに仰け反る様にして身を預ければ、は右手の指を降りながら独り言を続けた。


「1つ、押し付けられた書物を読みきる。2つ、紅明の部屋に突入して侵略計画の纏めを手伝う。3つ、紅炎の子作りを邪魔しに行く。4つ、シンドバッドにちょっかいをかけに行く。5つ、何もしないで早々に寝る」


五本の指、全てを折ったところでは口元に弧を描いて立ち上がる。選択肢をあげたものの、最初に言った通り答えは端から決まっているのだ。


「よーし、酒盛りじゃーい!」


つまり選択肢以外の選択肢、朝まで浴びる程、酒を飲む。である。


「っても外に飲みには出られないんだよねぇ。まあ、こんな事もあろうかと日々女官達に買って来て貰ってた酒が山程あるんだけれどぉ」


鼻歌混じりに重ね着していた服を脱ぐ。薄着の一枚だけになれば、よりの身体のラインを明確にし、色気を際立たせる。隠しておいた酒瓶を持てるだけ持って部屋を出れば、人目を避けて中庭へと進むのだ。


「こんな月が綺麗な日は、月を見ながら一杯しない訳にはいかないでしょうよ」


禁城でも滅多に人が寄り付かない中庭の奥地。木々の生い茂る中で最も存在感のある大木の下を選び、服が汚れるのも気にせず土の上に直に座る。傍らに酒瓶を置き、1つを開けると其れに直接口を付けた。御猪口なんてものはない。酒が飲めれば一先ず良かったのだ。


「久々のアルコールは身に染みるぅ」


ぷはぁ、なんて女が口にする様なものではない声を出して大木の幹に身を預ける。雲1つない夜空に真ん丸と浮かぶ月は美しい。酒は生前生きていた時代のものが口に合うが、此の時代の煌帝国の酒も悪くはなかった。


「図太く逞しく、此の大木の様に生きていこうじゃあないの」


酒瓶を高らかに掲げ、届きはしない月と乾杯。透ける硝子の中で揺らめく液体は、月明かりでキラリと光った。


「絶対王政ならぬ絶対皇政には負けないわよぉ!」


グイッとまた酒を飲み干し、吐息を吐く。そして意識は斜め前の立派な木へ。先程から其処でルフがひらひらと羽根を揺らして飛んでいるのだ。此処に誰が居るよ、と伝えようとしている様に。其の証拠に時折月明かりを反射させてる小さな光がチラついていた。


「で、其処の客人。乙女の一時の娯楽を物陰に隠れて盗み見るのはどの様な了見で?」


一向に姿を現す気の無い招待した覚えの無い客人に声を掛ける。あんな光る宝石を身に纏った人物等、煌帝国には一人しかないのだ。客人の大方の予想はついていた。


「気付かれていたか」

「此の月明かりの下では輝くものは輝くものよぉ」


姿を現した客人の額の宝石がまた光る。シンドバッドは確かな歩みで木影からの前までやって来ると、人の良い笑みを浮かべた。うん、唯のイケメンだ。


「こんな中庭の奥、官吏や女官ですら近付かないわよ」

「部屋に戻る時に大量の酒瓶を抱えて歩く美女の姿が見えてね。つい、付いてきてしまったんだ」

「其れを世間ではストーカーと呼ぶんですよぅ」

「すとーかー?」

「付き纏う行為の事。簡単に言うと変態ねぇ」

「それは酷い言い掛かりだな」

「そうかしらぁ?」


勤務外である完全プライベートの時間。本来は国の客人、畏るべきなのだろうがからすれば関係の無い事だった。そもそも、そんな小さな事を気にする様な器の小さな男では無い事を知っているからでもある。


「月見酒、俺も良いかい?」

「どぉぞ、シンドバッド王」


断る理由が無い申し入れを軽々と受け入れれば、隣に腰掛けるシンドバッド。途端鼻先に香る良い匂い。良い男は良い匂いもするらしい。


「昼間の時とは態度が違うな」

「そりゃあ、誰だって仕事の顔と私的の顔は違うでしょう」

「それもそうだな」


未だ開けていない瓶を手に取りシンドバッドへ差し出せば、笑顔で受け取る彼は早速蓋を開けると豪快な飲みっぷりを見せてくれる。どうやらイケる口らしい。


「俺は今の方が好きだ」

「さらりと言うのね。この垂らしが!」

「予想に反して口が悪いな!」


シンドバッドの切り返しに、女性らしく上品なものではなく巨漢の様な豪快な笑い方で声を上げて酒瓶片手に笑う。強い酒ばかりを集めて貰っていた事や、日頃のストレスからか今日は特に酔いが早かった。は所謂酒豪にあたるが、酔わない訳ではない。けれど潰れる事も、此れ以上酷くなる事も無いのだ。シンドバッドとしても女性が裏表無く飾らない様子で唯純粋に月見酒を楽しんで居る様子を見るのは、とても新鮮で気分が良かった。空を見上げれば本当に綺麗な満月が浮かんでおり、つい見惚れてしまう。


「月が綺麗だな」

「ぶふっ」

「どうした?」

「いいえ、何も」


シンドバッドにとっては単なる感想でしか無かったのだが、からすれば其の台詞は文学的代用表現でしかない。反射的に吹いたを噎せたのだと勘違いしたシンドバッドは卑しさの無い手付きでの背を撫でるのだから、は其れを笑って大丈夫だと制止すれば、シンドバッドは素直に撫でる手を下ろし、先程口をつけた酒瓶を傾ける。


「酒も美味い」

「極上の酒を集めて貰ったからねぇ」

「そして君はとても美しい」

「貴方はとても男前よぉ」


そして今度はストレートな褒め言葉、と言う名の恐らく口説き文句。サラリとにこやかに言うシンドバッドに負けじともにこやかに返せば、シンドバッドはほんの少しに顔を近付け、真っ直ぐと見つめるのである。


「そろそろ君の名が聞きたいな」


やはり、とが思うのは当然だった。何せ、シンドバッドに名前を聞かれてもことごとく躱して来たのだから。いよいよ逃げ切れないなと踏んだは、自分でも笑ってしまいそうになる様な名前を口にするのである。


「楊貴妃、ですわ」


そもそも楊は苗字であるし、貴妃は当時の中国の後宮で2番目に偉い奥方に与えられる位だ。名前ではあるが、本来の意味で言えば名前では無い。真の意味さえ知っていれば容易に嘘だと判断出来てもシンドバッドは簡単に騙されてくれるのだ。


「楊貴妃…覚えておこう。いや、忘れる訳が無いな」

「口説き文句かしらぁ?」

「そうとも言う」


完全にスイッチが入っているのか、口角を吊り上げて微笑む彼は女なら誰もが卒倒しそうな色気を漂わせる。しかしだからは言え、其の枠内にはおらず、鼻歌でも歌い出しそうな程の陽気さで受け流せば、シンドバッドは優しく微笑んだ。


「随分強い酒だね、これは」

「弱い酒なんて飲んでも仕方ないじゃ無い」


酒瓶をやや掲げたシンドバッドに、何言ってるの、とでも言うようには笑い飛ばす。弱い酒をちまちまと飲むと趣向はには無いのだ。其の声がやけにクリアなものだから、シンドバッドはは多少の酔ってはいるものの意識はしっかりとあるものだと断定付ける。そして酒瓶を一度地に置いたのなら、笑みを浮かべているものの、やけに真面目な面持ちで言うのだ。


「楊貴妃、シンドリアに来る気はないかい?」

「無いわ」

「少しは悩んでくれても良いだろうに」

「シンドバッド殿が煌帝国に留まれば?」

「それは無いな」

「少しは悩んでも良いでしょうに」

「ははっ」


は全くもってシンドリアに行く気は無い。先ず煌帝国が許す訳が無いのだが、そもそもシンドリアに移住を考える程の興味も無い。離れたところからシンドバッドを眺めている位が丁度良いからすれば煌帝国とシンドリア位がベストな物理的にも丁度良い距離感なのだ。


「しかし、君を手放すのは惜しい」


しかし、そう思っているのはだけでシンドバッドは違う。酒瓶を握るの手を取り、細くしなやかな腰を撫でる。其の手は徐々に後ろへと回り、背を捉えたのなら、シンドバッドはの身体を素早く引き寄せると其の首筋に唇を落とすのだ。耳元で聞こえる息遣いと素肌にかかる吐息。そして鼻を擽る彼の匂い。彼の唇が首筋を這いながら上へ上へと移動し、の瞳にシンドバッドの瞳が見えた。そして彼の唇がの唇を捉えようと近付き。


「ブヘッ!」

「シンドバッド殿、貴方のモノになった覚えはなくってよ」

「連れないなぁ」

「そうかしらぁ?」


の容赦ない張り手。一国の王相手に張り手をしながらも笑う度胸。そして謝罪の1つもない。此れにはシンドバッドもを拘束していた手を引っ込め、引っ叩かれた頬を抑えることしか出来なかった。


「声が聞こえると思ったら、こんな所で何やってるんですか王サマ」


不意に訪れた第三者の声に2人は同時に其方を見やる。褐色の肌に銀髪の鍛え抜かれた良い身体つきをした青年が呆れた様子でシンドバッドを見ていた。


「シャルルカン」

「やだ、良い男」


よ、と挨拶を交わすかの様に片手を上げて応じるシンドバッドと、身を乗り出しては笑顔を見せる。シャルルカン、シンドリア王国の八人将の1人である彼をはしっかりと覚えていた。シャルルカンはシンドバッドからに視線を移すと、の服装に一瞬驚いた様に目を丸くするが、直ぐに表情を変えて笑みを浮かべる。


「シャルルカン殿、シンドバッド殿と交代して私と一緒に月見酒でもしない?」

「そりゃあいいな」

「おいおい、俺は未だ飲むよ」


おいでおいで、とが手招きすれば、シャルルカンは笑顔でやってきての正面に座る。彼にもシンドバッド同様に空いていない酒瓶を手渡せば、シャルルカンは実に良い飲みっぷりを披露して満面の笑みを浮かべた。どうやら酒の味を気に入った様だ。


「本当に良い男ねぇ…どう?今夜私と」

「アンタと?いいな、乗った!」

「いや、待て待て」

「そういや王サマが振られてるとこ、俺初めて見ましたよ」

「振られたねぇ、王サマ」


夜を共に過ごさないかとが誘えば、にやりと笑ってシャルルカンが乗る。其れを慌てて止めようとするシンドバッドにシャルルカンとは笑うのだ。気を取り直す様に、シンドバッドは咳払いをすると、改めてに言うのである。


「楊貴妃」

「なぁに?」

「気が向いたら、いつでもシンドリアに来るといい」


正面から「楊貴妃か…いい名前だな」なんてシャルルカンの言葉に笑ってしまいそうになるのを堪え、は酒瓶を傾ける。


「気が向いたらねぇ」


波打って一気に流れ込む様に酒がの喉を潤した。









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