「(玉艶に復讐…だったっけ?白龍殿の目的って。…細かい所は忘れちゃったわ)」


此の世界に来てから其れなりの時間が経っている。そもそも死ぬ直前に読んでいた訳でも無いのだから、細かい所は記憶から抜けていても何ら不思議は無い。特に焦りが無いのも、からすれば大した問題では無いからだ。は未来を変えるつもりも、彼等の戦い等に関与するつもりも無い。唯、遠くから眺めている程度で良いのだ。何故なら死にたくないからである。あんな金属器使い達の戦いに巻き込まれでもすれば命なんて幾つあっても足りない。


「(紅炎殿が居たらシンドリア同行の件、ちゃんと聞いておかないとね)」


見えてきた紅炎の部屋に通ずる扉を眺めながら、其の扉の前で立ち止まる。入手の許可を得る為に部屋をノック、なんて事をはする訳もなく、ドアノブを捻って勢い良く開け放ったのなら、は中に居るであろう人物に普段より大きな声で呼び掛けるのだ。


「紅炎殿ー、届け物を持ってきたわよぉ」


紛れていた書物を抱え、紅炎の姿を探す。目的の人物は部屋の中に居り、直ぐに目視する事が出来たが、限り無くタイミングが悪かった。寝台の上で艶やかな色白の四肢や豊胸を露わにし、喘ぐ綺麗に着飾った見覚えの無い女。汗ばみ頬に纏わり付く髪が、とてもいやらしい。そんな女の上に跨る部屋の主人は、はだけた衣服から絞り上げられた筋肉質な背中を曝け出していた。ノックも声掛けもなく、突如現れた訪問者に一旦中断される行為。顔だけをの方へと向けた彼の顔は、とても落ち着いていて普段と変わらぬ表情で、驚いた様子すら見えない。彼は本当に普段通りの様子だった。衣服が乱れている事や、僅かに其の額や頬に汗が滲んでいた事を省けば。


「其処に置いておけ」

「あ、はい」


思わず凝視してしまうを我に返させたのは紅炎のやはり普段通りの声で発せられた指示で、は部屋に入室すると書物を紅炎に指示された机の上に置く。やけに静かな部屋の中、の足音や衣服の擦れる音がして無駄に響いて聞こえた。


「じゃ、失礼しました」


扉まで引き返し、そんな言葉と共に静かに退室。扉を閉めた向こうからは未だ何の物音も聞こえはしないが、行為は再開され、最後まで行われるのだろう。


「(まあ、世継ぎが居ないと困るものね)」


自室に戻る帰路を歩きながら、鮮明に記憶されてしまった先程の光景を思い返し、思考がぐるぐると回る。まるで自分の中から音が聞こえたような、そんな錯角を覚えた。ゆったりとした足取りでは一人誰も居ない廊下を歩く。そして目当ての部屋の前に立つと、其の扉を静かに開くのだ。


「こんな時間にどうしたんです」


突然の訪問でありながら、驚きの様子を見せない部屋の主は読みかけの書物から視線を上げる事なくに問う。此の時間に一人なのだから、彼はまた夜伽の女を拒否し、優雅な一人の時間を過ごしていたのだろう。否、優雅な時間等、彼にある訳が無く、こうして一切の時間も無駄にせず時間を過ごしていたに違いない。後ろ手に扉を閉め、寝台に腰掛けながら何かの本に眼を通す紅明の隣には腰掛けた。


「何かありましたか?」


刹那、触れるだけの優しいキス。紅明が目を丸くしを凝視すれば、は其れを一度見やってから、凭れかかる様に紅明に身を寄せ、意外と大きく逞しい背に両腕を回す。


「何も?」


紅明の胸の中で答えたの声色は、普段通りに違いは無い。が、明らかにの行動は普段通りとは言い難く、紅明は小さく息を吐くと手に持つ書物を傍らに置き、優しくの華奢な背に腕を回した。


「嘘ですね」

「何が?」

「何があったんですか」

「だから何も無いって言ってるじゃない」


お互いに顔を合わさず淡々と交わされる会話。けれど二人は背に回す腕を緩めようとはしなかった。


「嫌なの?」

「そういう訳では無いですが」

「なら良いじゃない」


不意にが顔を上げ、再び触れ合うだけのキス。そのまま紅明の首筋に顔を埋め、伝う様に首筋に唇を滑らせれば、は軽く紅明を押し倒すのだ。寝台に倒れる彼の上に覆い被さり、上から見下ろし見る紅明は眼を細めてを見ていた。


「貴女は煌帝国のモノです」

「今言う事?」

「ええ。貴女の頭は煌帝国には必要なモノです。だから煌帝国は貴女を手放すつもりはありません」


強く腕を引かれ視界が一変し、背中は寝台に沈んで、顔に紅明の髪が掛かる。鼻につく香の匂い。天井を背景にを見下ろす紅明の表情はやけに真剣に見えた。


「ですが、何も飼い殺すつもりは無いのですよ。貴女が何かに悩み、苦しんでいるのなら言って下さい。私も兄王様も、他の弟妹も尽力を尽くすでしょう」


紅明の指がの頬を撫で、乱れた前髪を流す様に指で払う。まさか紅明に心配をされる日が来るとは思わず、可笑しくては笑うのだ。


「馬鹿ね、紅明殿。何も無いって言ってるじゃない」


手を伸ばし、紅明の頬を覆う様に触れれば、其の手に紅明は己の手を重ねる。自然と二人の手は同時に離れ、紅明はの腰を、は紅明の胸元に触れた。


「女だってね、したい時があるのよ」


そう言ったを紅明は黙って見つめた。勝気な笑みは普段と確かに変わりない。けれど、普段とは違う事を紅明は気付いていた。“何か”があった事を確信していたのだ。しかし頑なに語ろうとしない様子に此れ以上の詮索はは望まないと判断すると、紅明は口を噤んでの首筋に顔を埋める。唇を這わせて下へと落ちていけば、耳元での甘い吐息が聞こえた。瞬間、紅明は己の閃きを口にする。


「兄王様と何かあったんですか?」


そして、其れが地雷であった事を瞬時に悟り、後悔するのである。


「イタイ!!」

「そりゃあそうでしょうよ」


思いっきり、とまではいかないが、それなりの強さで耳を齧られた。反射的に悲鳴に近い声を上げて飛び跳ねる様に仰け反った紅明を、不機嫌丸出しのが呆れながら言うのだ。


「男と女が良い雰囲気だってのに、そんなくだらない話を続ける?普通。私に集中しなさいよ」

「あ、はい」

「どうしてくれるの、この雰囲気。濡れるもんも濡れなくなるわぁ」

「すみません」


はあ、と大きな溜息を吐くはどうやらそこそこ立腹の様で、紅明はただ謝る事しかできなかった。此れ以上、此の話を続けるのは得策では無いと判断し、今度こそ何も言うまいと心に決めての鎖骨に唇を落とした。しかし言葉は口にせずとも、身体はこれから行われる行為に向けて動くものの、頭の中は全く違う事に支配されている。


「(兄王様…殿に何を言ったんですか)」


唯の閃き、直感だった。が関わる人物はそう多くは無い。官吏として禁城に身を置かせては居るが、業務内容は官吏とは程遠く、故に皇子や皇女と接点は多い。其の中で最も関わっているのは自分自身と兄である紅炎の二人であり、最後にと接触した書物を渡しに行った時は特に変化は無かったのだ。ならば、其の後から此処にが現れるまでの間に何かあったと考えるのが当然で。


「(今宵の予定は確か何も無かった筈…)」


紅炎の名を口にした時の反応から見ても、先ず紅炎絡みである事はほぼ間違いは無いだろう。特に今晩の予定は無い紅炎は自室に居るだろうから、何かしらの用があってが紅炎の元に訪れたのだと推測し、其処で紅明は更に閃くのだ。


「(まさか…)」


予定が無いという事は、何時もよりも早く夜伽の女があてがわれているという事。が紅炎の部屋を訪れたのなら、其の場面を目にしたとみて先ず間違いないだろう。しかし、其れで様子が可笑しくなる様な女だっただろうか、という女は。元々は紅明に夜伽の女として街から連れてこられ禁城に来た娼婦だったが。皇子たるもの、子孫を残す為に日々義務的に子作りをさせられている事を知っているが。考えられる点は一つしかない。


「不毛ですね」

「…何の話?」

「いえ、何も」

「何でも良いけど私に集中してと言ったじゃない。それとも何?私ってそんなに魅力ないかしらぁ?」

「そんな事ありませんよ」

「当たり前でしょう、私を誰だと思ってるの」

「あいたっ!」


突然の張り手。手加減はしてくれた様だが痛いものは痛くて反射的に紅明は声を上げた。紅炎の妻になる女は、紅炎の子を宿した女か、政略結婚で寄越される女だ。元は夜伽の女としてにも其の可能性がありはしたが、今となっては夜伽をする事はほぼ無いに等しく、与えた業務をこなすばかり。仮に子を宿したとしても、紅明自身が作った階級の所為で先ずは正室にはなれないのだ。


「(もし、殿がトラン語をあの日解読しなければ)」


夜伽の女のままだったのだろうか。仮にそうだったとしても、美貌を持ち合わせた夜伽の女は幾らでも居るのだから紅炎が興味を示したとは考えられない。結局の所、どちらにしても結果は同じなのだ。紅明の推測通りならば、の想いは報われる事は無い。



















其の日は晴天で、波も穏やかだった。煌の字を大きく描かれた帆を張り進む船は海の上を進んでシンドリアへと少しずつ近付いて行く。船内から外へ通ずる扉を開けば、外に居た兵達が並び立ち、出て来た彼を迎える。


「シンドリアへの進路は予定通りです。皇子殿下」


此の船の中で最も階級の高い白龍に膝をついて敬礼する兵達。其の間を進み、未だ見えぬシンドリア王国がある方角を見据えて白龍は呟いた。


「シンドバッド王とは、はたして如何なる人物か…」


次いで、白龍の背後から現れる途轍も無い殺気と迫力を放ちながら現れる少女。


「シンドバッド…コロス……シンドバッド…コロス……!!私に…あんな事をしておいてェェ…!!!」


ブツブツと小声で呟く紅玉は、また船内で涙を流していたのか化粧が落ちて両頬に黒い筋を付けていた。金属器を武器化魔装し、今にも斬りかからんとする紅玉を、冷や汗を浮かべせる兵達は目を合わさぬ様に決して見ようとはしない。しかし、此の船には果敢にもそんな紅玉に声を掛ける唯一の人物が乗船していた。


「落ち着いて、紅玉殿。折角の可愛らしい顔が鬼のよう」

「落ち着いてなんていられないわぁ…!」

「気持ちは分かるけれど、今そんな殺気立って居ても仕方ないわよぉ」


潮風に吹かれながら甲板に立ち、海を眺めていたは甲板に出て来た白龍を見てから紅玉を見て、にこりと微笑む。正気とは言い難い紅玉は完全に血走った目をしていたが、にこりと微笑むに毒気を抜かれたのか、周囲を見渡し目を合わせようとせぬ兵達を見て少し冷静になれたのか、金属器の武器化魔装を解くとほんの少し落ち込んだ様に顔を伏せる。


「ほおら、其の怒りはシンドリアに着くまで置いておいて、今は一緒に海を見て楽しみましょう。滅多に無いじゃない、海を旅するのは。綺麗よぉ」

「そ、そうねぇ…」


頬に付着した落ちた黒いアイラインを袖で拭ってやりながら、は紅玉の背を押して甲板の先へと誘導する。落ち着きを取り戻した紅玉に兵達が安堵の息を吐いたのは言うまでもない。


「お願いした私が言うのも何だけど…本当に良いのかしらぁ?」

「良いの良いの!」


少し不安気にしながら紅玉は隣に並ぶを見上げて問えば、其れを笑い飛ばす様にしては微笑むのだ。


「人間、誰でも息抜きが必要なのよ」


がシンドリア王国に留学する白龍に紅玉と共に同行するのは完全に無許可だった。結局、紅炎や紅明に相談する事はおろか、告げさえせずに付いて来たのである。勿論与えられた業務は全て処理し、書物は全て読み頭に叩き込んで来た。そもそも働かせ過ぎなのだ、有給制度が無いのなら勝手に実行するだけである。有給は必ず消化しなければならないのだから。









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