「獅郎…!」


其の日は何の前触れも無く、唐突に訪れた。知識としては知っていた。いずれ、此の道を誰もが通る事を。しかし其れが今日である事を誰が一体予想出来た事だろうか。



















寝癖を簡単に直し、よれた寝巻きから私服に着替えたは玄関で靴を履いていた。全体的にボーイッシュな印象を与えるコーディネートの装いで、は靴紐を解き、適度な緩さにしたのなら、また靴紐を結ぶ。


「また行くのか?」


玄関の扉から獅郎が現われ靴紐を結ぶを見下ろし尋ねる。先程、燐がネクタイも締めず借りたスーツを身に纏って出て行った事から、獅郎は燐を見送った後なのだろう。靴を履き終えるとは腰を上げて立ち上がれば、獅郎の隣を横切って外へと出る。





真っ直ぐ飛んで来た呼びかけに立ち止まって振り返れば、初めて出会ったあの日よりも、すっかり老いた獅郎がにやりと口角を吊り上げて笑っている。身体こそ老いたものの、其の笑顔だけは何年経とうが、何十年経とうが変わらない。


「ちゃんと帰って来いよ」


冷たい風が吹き、獅郎との間にの黒い髪が揺らめく。風に乗せられ舞う髪をそのままには小さく、しかししっかりと頷くのだ。


「いってきます」


は獅郎と修道院に背を向け歩き出す。以前は辿り着くまでに其れなりの時間を要したが、身体も大きくなった今では以前の半分程度の時間で来る事が出来る。五年程前から決まって訪れる、お気に入りの場所、断崖絶壁のあの場所だった。もう何度も此処に足を運んでいるが、此処から見える景色は今も昔も変わらない、美しいままだ。


「(雪男は進学して、獅郎と同じ祓魔師になった)」


目の前に広がる絶景に目を細め、澄んだ空気を肺一杯に吸い込めば、吐き出す息は風と共に何処かへと消えていく。


「(燐は…多分就職する。たぶん、大丈夫)」


燐に関しては不安ばかりだ。あの短気で頭よりも先に手が出る性格は今迄の学校生活の中でも悪影響を及ぼす事もあり、きっとこれから社会の中で生きていくのにも不利になる事もあるだろう。其れを抑えられるかどうかは、今後の燐の意識の問題だと言える。燐も燐なりに考えており、未だ未熟な所はあるが全く単純な馬鹿という訳でもないのだ、きっと壁にはぶつかり苦戦は強いられるだろうが、何とかやっていけるだろう。其の点に関しては、もあまり気にしてはいなかった。


「(けど…)」


しかし全く問題ない、大丈夫だと言い切れる訳ではなかった。其れは雪男にも言える事なのだが、雪男よりもまず燐の方が危なっかしく思える。が危惧する“其れ”は、年々力を増しており少しずつ、少しずつ外に漏れ出しているのである。


「(サタンの落胤…)」


今朝のストーブが突然爆発した一件もそうだ。燐の持つ炎は降魔剣と言う古から伝わる魔剣の剣に移植され、鞘で封印されている。今までは其れで何ら問題も無く日々を過ごしてきたのだが、抑え切れなくなる程に、燐の持つ炎の力は日に日に強くなってきていた。


「(どうするつもりなのか…)」


実際、訓練を積んでいる雪男と違い、何もせず一般人として過ごしてきたはずの燐の霊圧ですら、以前にも増して強まってきている。が気付いていながら、ずっと昔から燐を見てきた獅郎が、燐の変化に気付かない筈がなかった。何せ、燐の炎を封印したのは紛れもない獅郎なのだから。


「(…まぁ、いいか)」


崖に足を放り出して座り、砂が付着することすら気にせず其の場に寝転がれば、両手を大きく広げて空を見上げた。真っ青な青空に所々白い雲が掛かる。太陽は燦々と輝いており、洗濯物は良く乾く事だろう。はそっと瞼を下ろし、土の温もりを感じながら思考を停止させた。絶好の昼寝日和である。服が汚れてしまうが、いつもよりも贅沢な昼寝をしようと意識をそのまま沈ませた。









其れが、いけなかった。









「!!!」


禍々しい邪悪な気配に飛び跳ねて目が覚めたのは、日が傾き薄暗くなった夕方頃の事。瞬時に目の前でぽつぽつと明かりを灯し始める街を見下ろしては素早く立ち上がると一切の迷いも無しに崖から飛び降りる。


「(初めて、感じる…強い霊圧…!)」


心臓が今までに無い程、強く鼓動するのは遥か高い崖から飛び降り、身体が急速に落下しているからではない。妙な違和感と、変な胸騒ぎがの鼓動を速めるのだ。


「(修道院の方…!!)」


落下しながら空中で霊子を固めて足場を作り、が其処に着地すれば落下していた際に掛かっていたエネルギーは全て霊子で作られた足場に分散され消えていく。端から見れば空中に浮いている様に見えるのだが、此処には人の姿や影、気配は無いので目撃者は居ない。足場から飛び降り、軽い音を立てて地面に飛び降りれば、は今までで一番の速さで修道院に向かって駆け出した。


「…獅郎…?」


邪悪な気配を感じる方角は修道院の方からで、霊圧から見て燐と獅郎は其処に居るのだろうが、雪男は居ない様で霊圧は感じられない。不安に焦燥感を感じながらに足はひたすら動かし続けていた中、は強烈な違和感を感じ、其の違和感の根源である霊圧を持つ男の名を無意識の内に、呟いた。


「獅郎…!」


獅郎の霊圧が、気配が、まるで邪悪な何か闇の中に引き摺り込まれて行く感覚。気の所為では絶対に無い。何かに覆い尽され霞んでいく此の気配は確かに獅郎のもので。は強く歯を食いしばった。力強く地面を蹴れば、其処には足形に地面が少しへこんで、の姿は一瞬にして消えてなくなる。死神が用いる特殊な走法、瞬歩だ。



















「獅郎!!!」


靴を脱ぐ事すら忘れ、は土足で修道院の中を走ると、己の鼓動を速める源が存在する、燐の使っている部屋の扉を彼の名を叫びながら勢い良く開いた。扉を開いた瞬間、部屋に充満されていた邪気がぶわりと熱を持って溢れ、は目を細める。そして、其の狭まった視界の中で見えた光景に、今度は大きく目が見開かれるのだ。


「こいつは俺の息子だ…!」


まるで悪魔の様に耳を尖らせ、目や、鼻や、口や、耳の穴から、身体中の穴から大量の赤い血を垂れ流す獅郎が、何時も首からぶら下げている先端が鋭く尖った針を自らの手で、自らの左胸を深く深く突き立て刺していた。


「返してもらおうか…!!」


サタンに身体を乗っ取られたのだろう、獅郎は身も心もサタンに侵食されながら最後の力を振り絞り、身体を奪い返して己の命を絶つ事を決めたのだ。呆然と強張った、血の気が引いている真っ青な顔色では獅郎の最後の姿を見ていた。開け放った扉から、一歩も動けず、ただ其の獅郎の無残な姿と、床に現われた大きな虚無界の門と、其の虚無界の門に胸から下まで沈んでしまっている燐を、まるで信じられないものでも見ているかの様な瞳で、見ていた。


…!」


獅郎の身体は小刻みに震え、今にも身体の主導権は獅郎からまたサタンに奪われ様としている。血走った瞳にの姿が映り、の口元が、歪に歪んだ。


。燐と雪男を護ってやってくれ」


ぐらりと傾く獅郎の身体。其れに手を差し伸べる事もせず、は立ち尽くしたまま見ていた。虚無界の門に身体が沈む刹那、獅郎の口か最後の言葉を小さく呟く。


「頼む―――――…」


其れは最早聞き取ることすら出来ない様な小さな声だったが、其の唇の動きでそう言ったのだと分かる。虚無界の門に沈んだ獅郎の身体は其れ以降動きを見せない事から、獅郎が絶命したと同時にサタンも消えたのだろう。は虚無界の門に呑み込まれながら獅郎を抱えて騒ぐ燐を、まるでテレビでも見ている様な感覚で眺めた。を埋め尽くすのは、空虚な感情。


「クソジジィ…!!!」


獅郎が倒れた際に、獅郎の手から離れた虚無界の門に突き刺さる降魔剣に燐は手を伸ばす。痛々しくも歪んだ表情は、強い決意も抱いていた。燐はこの時、人間として生きる事を確かに捨てたのだ。


「俺はまだ何も見せてねぇぞ!!死ぬな!!!!」


鞘から引き抜かれた降魔剣からは溢れ出る様に青い炎が放たれ、燐が刃を振り下ろしたのなら虚無界の門が聞くに堪えない断末魔を上げて青い炎に焼かれて消滅する。人間のものにしては長い耳、鋭く尖った牙。長く生えた黒い尻尾と身体の所々から飛び出すサタンの象徴とも言われる青い炎。全てが燐を人間から悪魔へと化した事を告げていた。


「―――――…、」


虚無界の門が消え、人間ではなくなった燐が震える手で静かに降魔剣の刀身を鞘に戻せば、身体中から溢れていた炎が一瞬にして消え、黒い煙を上げた。残ったのは黒い煙と、血塗れで横たわる神父の格好をした男。ぴくりとも動かぬ其の身体は、真っ青になっており、もう全てが遅いのだと語る。じわり、燐の瞳に涙が溢れた。


「父さん…!!」


燐の悲痛な呼びかけは獅郎には届かない。は冷たくなった獅郎の遺体を前に涙を流す燐の背中を、拳を強く握り締めながら、ただじっと見ていた。遠くの方から騒ぎに気付いたのだろう、人の声と足音が慌しく此方に向かってくる。暫くして現われた神父見習いの男達は、部屋の中の惨状を見ては言葉を失っていた。人が来る前に尻尾は服の下に隠したのであろう、燐が見習いの男達に連れられ部屋を出て行く。部屋に横たわったままの獅郎の隣に跪いた男は脈が無い事を確認すると唇を強く噛み締め、透明の雫を静かに流した。獅郎の遺体が担架に乗せられ部屋を出る。担架を運ぶ男達は震える唇で涙を何とか堪えながら、狭い廊下を獅郎を連れて歩いて行った。


…」


任務に出ていたのだろうか、大事な時に居なかった雪男が未だ其処から一歩も動けずに居るに声を掛ける。部屋の中には焼けた跡と獅郎の血痕が付着しており、先程見た光景が夢ではなく現実である事を語る。呼びかけに反応を示さないに雪男は暫し黙り込むと、結局其の場にを置き去りにして部屋を出て行った。これから獅郎の葬儀の手配等を行わなければならないからである。静かになった部屋の前で、は静かに足を踏み出した。ずっと、踏み込めなかった部屋に一歩踏み出した瞬間、どうしようもなく例え様もない感情が湧き起こる。しかしの瞳から涙が零れる事は無かった。










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