それなりに知識のある者からすれば、サタンなんて大物を倒すと祓魔師でもない人間が口にするのはあまりにも無謀で、遠すぎる目標で、夢のまた夢で。現実味の無い其れに笑わずにはいられないだろう。志摩の反応は普通と言えば普通と言える。しかし、勝呂と同じ目標を掲げる燐からすれば、険悪な相手と完全に目標が被っている事が不服なのか、とても微妙な表情をしていた。


「志摩さん、笑うなんて。坊は“青い夜”で落ちぶれてしまったウチの寺を再興しようと気張ってはるだけなんです」

「“青い夜”?…なんだそれ?」

「知らんの?」


子猫丸が申し訳無さそうに言った言葉の中に聞き覚えのない単語を燐が尋ねると、目を丸くさせる志摩と子猫丸。一般人なら兎も角、こちら側の世界で青い夜を知らない人間は非常に珍しく、二人は驚きを隠せないといった様子で燐を見たのだった。


「はぁー、珍しいなぁ…。もしかしてさんも青い夜、知らんとかゆうん?」

「まさか。知ってる」

「何!?」


からかうように口角を吊り上げて志摩に尋ねられれば、呆れた様にやれやれと、きっぱりと答えたに、目が飛び出さんばかりに声を荒げて燐は驚愕を露にするのだ。


「何でお前、知ってんだよ!?」

「知ってるものは知ってるから」

「答えになってねぇよ!」

「…そもそも祓魔師一応目指してるんなら、其れくらいは知ってないと不味いんじゃない?」

「な…!」

「只でさえ燐は物覚えが悪いんだから、ちゃんと予習復習しなよ」

「うぐぐ…!」

「返す言葉もあらへんって感じやなあ。さんキツうー!」


燐からすれば、自分が知らない事をが知っているのが相当驚きだったようだ。勿論、は青い夜を体験した訳ではなく、獅郎伝いで知識として知っているだけである。其の後、祓魔師を目指すと言う割りには無知すぎる燐に、は今まで言わなかった本音をこの際と言わんばかりに燐にぶつけるのだ。的確に正論に、徹底的に打ちのめされた燐は言い返す事も出来ずに、只々、口を噤んで忌々しげにを睨む。勿論は怯えもせず燐を無表情に見ており、ついに燐は視線すら逸らしてそっぽ向くのだ。そんな燐とのやり取りを見ていた志摩は、二人を大変面白そうに見ていて声も押さえず大いに笑っている。に言葉攻めされ、志摩に笑われ、悔しそうに唇を噛む燐に同情したのだろう、子猫丸が青い夜を知らぬ燐に、静かに青い夜の事を話すのである。


「青い夜というのは…十六年前、サタンが世界中の有力な聖職者を大量虐殺したって日のことです。うちの寺もやられたんよ。僕らは二人とも坊のお父さん…和尚の弟子なんやけど…和尚に聞いた話では…」


子猫丸は語る。当時の和尚を含め、主に力のある祓魔師達が次々と身体中から血を流し、青い火を吹きながら死んでいったという夜の事を。言わずもがな、青い炎はサタンの証である。一日で大勢の坊主が変死した寺に不穏な噂が立たない筈も無く、子猫丸の寺は皆気味悪がり、檀家も参詣者も減って“祟り寺”と呼ばれる様になったそうだ。


「坊が生まれて物心つく頃には寺は廃れとったから…」

「あー、戻ってきはったわ」

「授業再開するゾー!」


勝呂を連れ出していた椿が、勝呂を引き連れて戻って来る。其の勝呂の表情は何処か強張っており、椿に何か言われたのだろうか、苦々しく歪んでいた。片手を上げながらやって来た椿は授業再開の準備を始めようと蝦蟇の入れられた檻と繋ぐ鎖を操作する操縦機器のある定位置へと向かうのだが、突然、椿がズボンのポケットに入れていた携帯がバイブし、椿は携帯を取り出し画面を確認すると其れを耳に押し当てる。どうやら着信だったらしい。


「何かネ?ハニー。なんだって?今からかい?仕方が無い子猫ちゃんダ!」


通話を終え、ポケットに携帯を仕舞う椿。明らかに私用の電話に皆が呆然と椿を見ている中、競技場にいる生徒達の方へ椿は勢い良く振り返れると高く左手を掲げて宣言するのである。


「注ゥ目ゥーーーー!しばらく休憩にする」

「………え!?」

「…今子猫ちゃんいうてはった」


信じられないと言わんばかりに顔を歪ませる勝呂に、通話の中に椿が零した言葉に呆れながら文句を言う志摩。明らかに私用で授業を抜けようとしている椿に誰もが疑いの目を向けていたのだが椿は構う様子は無かった。


「いいかネ!基本的に蝦蟇は大人しい悪魔だが、人の心を読んで襲い掛かる面倒な悪魔ナノダ!私が戻るまで競技場には降りず、蝦蟇の鎖の届く範囲には決して入らないこと!いいネ!」


椿の指示に従い、全員が競技場の上の安全な場所に集まると、椿は左手の人差し指を立て、右手を腰に添えてながら蝦蟇を尻目に塾生達に近付かない様にと厳重に忠告する。其々が椿に了解の合図にと頷き、返事を返せば椿は満足そうに鼻息荒く頷けば、椿はさっと塾生達に背を向けて走り出すのだ。


「わかったら以上!今行くヨ、子猫ちゃーーーん!!」

「ちょ…あれ、ええんか?」

「…!!」


言うだけ言って、本当に駆け足で去って行く椿はすぐさま競技場から姿を消し、姿を再び現す様子も、戻ってくる気配も無い。呆然とする志摩の隣では、勝呂がついに怒りのままに表情を歪ませるのだ。


「なんやあれ…!あれでも教師か!!」


勝呂の怒りは沸々と募る。我慢ならないのだろう、勝呂は誰よりも強い信念と目標を掲げて此の塾に期待と希望を抱いてやって来たのだから。だからこそ余計に中途半端な意識の者を見ると癇に障るのだ。


「正十字学園てもっと意識高い人らが集まる神聖な学び舎や思とったのに…!生徒も生徒やしなあ!」


其の怒りは椿から燐へと移り、勝呂は強く燐を睨みながら声を荒げた。咄嗟には燐の肩を掴むのだが、燐は構わず奥歯を噛み締め、勝呂を睨み返すのである。


「…なんだよ、さっきからうるせーな。なんで俺が意識低いって判んだよ…!」

「授業態度で判るわ!!」

「また始まったわ…」


勝呂と燐の喧嘩が再び始まると、志摩が呆れた様に溜息を零す。そして怒りを露にする勝呂に志摩と子猫丸は歩み寄り、怒りを抑えるよう諭すのだが、あまり効果は無いようだった。


「坊、大人気ないですよ」

「止めたってください、坊」

「やかましいわお前ら!黙っとけ!」


控え目に声を掛け、止めに入る志摩と子猫丸にすら牙を剥く勝呂。どうすれば二人の喧嘩が終わるのだろうか、考えれば考える程くだらないなと思い、は深い溜息を吐いて、あてつけの様に燐の背中を肩を掴む手とは反対の手で軽く殴る。


「痛っ!な、何すんだよ!」

「………。」


突然背中に襲った痛みに声を上げた燐がじろりと肩越しにに振り返る。其処に見えたのは酷く面倒臭そうに表情を歪めた不機嫌丸出しのの顔で、燐は素早く視線を前に戻すのだ。見てはいけないものを見た気がしたからである。するとばちりと勝呂と燐の目が合い、勝呂は再び燐に吠えるのだ。


「そんならお前が意識高いて証明してみせろや!」

「は!?」

「あれや」


勝呂は競技場の下で鎖に繋がれた蝦蟇を指差す。此方をじっと見ているものの、動かず静かに座っている蝦蟇はさすが大人しい悪魔と言えるのだが、蝦蟇に近付くなと椿に言われているというのに勝呂は何を考え付いたのか、現段階では誰にも判らなかった。そして、勝呂はとんでもない提案をするのだ。


「蝦蟇に近付いて襲われずに触って帰ってこれたら勝ち…!」


誰もが呆然と勝呂の提案を聞いていた。其処には呆れすら混じっていた様にも見える。中には冗談だろ、と軽く聞き流す者も少なからず居た。


「蝦蟇ゆうのは目に映った奴の目を見て感情を読み取ってくる。恐怖悲しみ怒り疑心。兎に角動揺して目を逸らしたりしたら最後、襲い掛かってくる悪魔なんや。つまり、平常心でいれば襲われずに済む。今後、祓魔師としてやってくねやったら蝦蟇なんてザコにビビッとられへんしな?」


椿にあれ程、近付くなと注意されたというのに、近付くだけではなく触れて来る勝負を提案する勝呂。は馬鹿馬鹿しいと呆れた顔を浮かべるが、勝呂は真っ直ぐ燐を見ていての態度に見向きもしなかった。


「もちろん俺もやる。当然勝つ!お前も無事に戻ってきたら覚悟決め手やっとるって認めたるわ!どうや、やるかやらんか決めろ!」

「……へっ、面白ェーじゃねーか!」


勝呂の挑発に口角を吊り上げると、燐は肩を掴むの手を振り払う。どうやら心配には及ばないらしい。素直には引き下がると、の様子を横目で見ていた志摩はさり気なくの隣に並ぶのだ。


「ええん?」

「多分」

「多分て」


の回答に志摩の顔には思わず苦笑が零れたが、は志摩に見向きもしないで只々、燐と勝呂を見守った。


「まぁ、やんねーけど」

「なん!?」


鼻を指で穿りながら、如何にも勝負に乗りそうだった燐は簡単に勝負を拒否する。乗ってくると確信に近いものを抱いていたのだろう、勝呂の表情は忽ち破顔した。


「間違って死んだらどーすんだ。バッカじゃねーの」

「………な」

「俺にもお前と同じ野望があるしな。こんなくだらない事で死んでらんねーんだ」


そう言って話は終わったとばかりの顔をする燐。野望、其れはサタンを倒す事。燐の言った意味が理解出来ずに頭の中を混乱させていた勝呂だが、しかし直ぐに志摩と子猫丸が燐に話したのだと気付くと苛立ちを更に増すのだ。


「何が野望や…お前のはビビっただけやろうが!!」


酷い剣幕で今日一番の怒声を勝呂は上げる。奥歯を強く噛み締め、俯き溢れる感情に言葉を乗せた。


「なんで…何で戦わん…悔しくないんか!!!」


まるで今まで何か悔しい思いをしてきたとでも言う様な声色で、覇気で、苦しそうに勝呂は吠える。其れを冷めた目で見る燐に、より一層勝呂が表情を歪ませたのなら、燐に背中を向けて蝦蟇の元へと降りて行くのだ。


「俺はやったる…!お前はそこで見とけ腰抜け!」


皆の制止も聞かず、坂道を滑りながら競技場へ一人降りて行き、蝦蟇と向かい合う勝呂。生徒達は息を潜め、動揺しながら勝呂を見守る。誰も勝呂を連れ戻そうと競技場に降りては行かなかった。


「…俺は…俺は!」


勝呂が蝦蟇に歩み寄る。今にも鎖の届く範囲、いつ噛み付かれても可笑しくない0距離まで近付く。静まり返る空気、小さく息を吸ったのなら、勝呂は真っ直ぐ蝦蟇を見据えて、はっきりとした声色で野望を口にした。


「サタンを倒す」


静まり返った競技場には、勝呂の声は酷く良く届く。言葉の意味が脳で処理されるまでに要した時間、一秒にも満たない短時間。此の場に居る殆どが同じ感想を抱くのだ。


「プッ、プハハハハハハ!ちょ…サタン倒すとか!あはは!子供じゃあるまいし」


長い髪をした女子生徒が心底可笑しいとでも言うように笑う。其の隣では恥ずかしそうに顔を赤らめる志摩と子猫丸が居た堪れないといった風に立っていた。途端揺らぐ勝呂の霊圧。


「(嗚呼)」


は瞬時に悟った。こうしてずっと笑われてきたのだろうと。刹那、目を見開き蝦蟇が大口を開けて勝呂に飛び掛る。勝呂の心の揺らぎを敏感に察知したからだ。同時に飛び出した燐。其れをは横目に見送る。


「(可哀想に)」


が勝呂の野望を聞いて抱いた感想は其れだけだった。決して勝呂は馬鹿では無い。どちらかというと秀才に分けられる努力家な彼は、如何に其れが難しい事が十分に理解していることだろう。分かっていて、口にする。理解していて、目標にしている。そんな勝呂を馬鹿にするのは簡単な事だ、大半の人間は戯言だと笑い飛ばした事だろう。一人でずっと耐えて来たのだろう。彼の傍には、分かち合う同志は居なかったのだろう。其れが何よりも、可哀想だと思ったのだ。一人で耐え続けられる程、勝呂の心は強くないのだから。ならば。


「きゃああああ!!!」

「燐!!」


蝦蟇から守る様に勝呂の前に飛び出し、蝦蟇に噛み付かれた燐に女子達は絶叫を上げ、目を覆った。慌てふためく生徒達の中、だけがやけに冷静な態度で燐と勝呂を見下ろしている。


「(寄り添ってあげればいい)」


膨れ上がる燐の霊圧。其処に滲む、僅かなサタンの気配に、やはり此の子はサタンの子なのだと感じさせられた。格の違いを体感したのか、蝦蟇が口を開き、ゆっくりと噛み付いた燐の身体を開放する。


「…なにやってんだ…バカかてめーは!!」


そして何でも無いかの様に蝦蟇に背を向けて腰を抜かした勝呂に燐が向き直れば、其の後ろで大人しく口を閉ざして静かに座る蝦蟇。蝦蟇は燐に怯えているのか、冷や汗すら浮かべている様にには見えた。


「いいか?よーく聞け!サタンを倒すのはこの俺だ!!!てめーはすっこんでろ!」


胸を張って堂々と言ってのけた言葉は、先程勝呂が口にしたものと同じ。唖然とする一同、今度こそ誰も笑ったりはしなかった。状況の理解に追いつかない勝呂は目をグルグルと回して頭を思考をフル回転させる。そして勢い良く立ち上がったのなら、目の前に立つ燐に食って掛かるのだ。


「なななん……バ、バカはてめーやろ!!死んだらどーするんや!つーか人の野望パクんな!!」

「パクッてねーよ、オリジナルだよ!!」


其れから始まる二人の言い争い。呆然と下で口論になる二人は、今しがた蝦蟇に噛み付かれ、襲われそうになったと言うのに蝦蟇なんて蚊帳の外で先程と変わらぬ言い争いをしている。徐々にヒートアップしていく口喧嘩は激しさを増し、終いに二人は取っ組み合いの喧嘩を始めるのだ。


「またや」

「せやけど…」


志摩と子猫丸の表情がほんの少し和らぎ、ぎゃあぎゃあと騒ぎながら暴れる二人を見下ろしている。そんな二人の剣幕こそ、酷いものだったが、子猫丸はぽつりと思ったことを口にするのだ。


「なんかあの二人、似た者同士やね」


其の横顔は穏やかで、勝呂と燐を見る瞳は優しい。子猫丸の発言には同じく思う所があったのか、志摩は人差し指で頬を掻きながら、ほんの少し笑みを零すのだ。


「確かに」


穏やかな空気が流れる。対して、競技場では激しい殴り合い蹴り合いが行われており、蝦蟇ですら二人から遠ざかる様に避難を始めているのだから、そろそろ止めに入らないと不味いだろう。


「ほな先生にバレる前に、さっさと二人を連れ戻しましょーか。さんも行くやろ?」


当然の様に志摩がに視線を向け、人懐っこい笑顔を向ける。当然、も行くだろうと信じ込み、応じると思っていた志摩と子猫丸だったが、の口から飛び出た言葉に思わず硬直するのだ。


「めんどくさい」

「え!?」

「僕らだけであの二人止めれませんよ!?」


志摩と子猫丸が必死にを手伝えと説得するも、全くもって聞く耳を持たないはさっさと競技場とは反対に壁側まで移動して、その場に座り込むのだ。其れを何とか動かそうと志摩と子猫丸が言葉を投げ掛けるが、は立ち上がろうとはせずに傍観を決め込む。志摩と子猫丸を憐れみの目で見る女子生徒達と、呆然と落ち着かない様子で勝呂と燐を見守るしえみ。彼方此方で好き勝手する生徒達は結局授業終了の鐘が鳴る迄、其の状態は続き、椿は結局戻って来る事は無かった。










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