雪が美しい季節が過ぎ、桃色の花弁が美しい桜の季節も過ぎて、蝉が騒がしく鳴く季節。一旦外へと出れば、其の蒸し暑さにじんわりと汗が滲む暑い日が続いていた。言わずもがな、夏である。部屋にはエアコンが良く効いていて、とても過ごしやすい気温が保たれているが、其れでも長袖なんてものは着れそうに無い。教壇には祓魔師の制服である長袖のコートを着用した雪男が、相変わらずとても涼しい顔で授業を進行していた。
「夏休みまでそろそろ一ヶ月半切りましたが、夏休みの前には今年度の候補生認定試験があります」
雪男の手には数枚の紙の束が握られており、柔らかい微笑みを浮かべながら疎らに着席する生徒達を見渡しながら声を上げる。
「候補生に上がると、より専門的な実戦訓練が待っている為、試験はそう容易くはありません。…そこで来週から一週間、試験の為の強化合宿を行います」
候補生、聞き覚えの無い単語に首を傾げる燐を一番後ろの席から眺めながら、頬杖を付いてはぼんやりと雪男の言葉に耳を傾けていた。
「合宿参加するかしないかと…取得希望“称号”をこの用紙に記入して月曜までに提出して下さい」
雪男が手に持っていたA4サイズの紙を手前に座る生徒達から順番に配っていく。一番最後にの元へと雪男がやって来たのなら、用紙を受け取ったに小さく微笑むと其のまま踵を返して教壇へと戻って行った。何故微笑まれたのかは一生の謎である。
「(合宿…面倒臭いなぁ…)」
持参したシャープペンで一番上の欄に名前を記入し、合宿の参加に丸を付ける。勿論、燐が参加しないというならも参加するつもりは無いのだが、燐なら必ず参加に丸を付けるに違いない。そう確信しての選択だった。そして視線は其の下の称号へと移る。
「(…別に何でもいいんだけど)」
騎士、竜騎士、手騎士、詠唱騎士、医工騎士。其の五種類の違いが分からないでは無い。死神として現役で働いていた時の事を考えれば、当てはまる項目は騎士と詠唱騎士だろう。だからといって、其の項目に丸を付ける事が出来ずペン先が止まったのはが祓魔師になりたい訳では無いからだ。燐が祓魔師になると塾に入ったから、同じくも塾に入ったに過ぎない。目指しているわけではない、ただ燐の傍に付いていたいだけなのだ。
「さんは何取るん?」
目指しているものが無いとなると、どの項目も丸をするのに抵抗が生まれる。どうしようか、そんな事を考えていると真上から掛かった声に、ゆっくりと顔を上げた。ゆるい笑みを浮かべた志摩が、其処に居る。
「悩んではるんやね。奥村くんは騎士目指しはるんやって」
「…そう」
「はは、興味無さそうやな」
薄いの反応に零れる苦笑い。志摩は何度か話を繋げる為に話し掛けるが、其れ以降、全ての言葉を無視を決め込んだに困った様に笑ったのなら、珍しく早々に自分の席へと戻って行った。其処には何時も通り、勝呂と子猫丸の姿があり、珍しく燐の姿もある。どうやら和解したらしい。
「(騎士…ね。降魔剣があるからか)」
燐が何を目指すか等、好きにすれば良いと思う。唯、傍で見守ることさえ出来るのなら、燐が何を望もうとは止めたりしない。結局、目指す称号には一つも丸をする事はしなかった。授業が終わり、移動教室の為に席を立った際、教壇に立ったままの雪男に用紙を提出する。内容を見て雪男は呆れた様に顔を顰めていたが、は見て見ぬ振りをしてさっさと教室を後にしたのである。
「これから悪魔を召喚する」
続いての授業は魔法円・印章術を学ぶ時間だった。椅子や机といった物が無く、広々とした教室の中央に、生徒達は集まっていた。担当教師であるイゴール・ネイガウスがコンパスの先端に設置されたチョークで地面に何やら複雑な魔法円を描いている。
「図を踏むな、魔法円が破綻すると効果は無効になる。そして召喚には己の血と適切な呼び掛けが必要だ」
ネイガウスは痛々しい程に大量の血が滲んだ包帯を慣れた手付きで解いていく。露わになった傷口は古いものから新しい物まであり、生々しい傷が無数に刻まれて来た。其の中の一つ、開いた傷口から赤い血を魔法円に滴らせれば、ネイガウスは魔法円に手を翳しながら呼び掛けるのである。
「“テュポエウスとエキドナの息子よ、出でよ”」
まるでネイガウスの血と呼び掛けに反応する様に、魔法円を中心に風が渦を巻く。魔法円の中央から黒く醜い手が生えて、次第に其れは姿を現し、露わになった肉体からは鼻に付く様な腐った異臭が漂った。
「悪魔を召喚し、使い魔にする事が出来る人間は非常に少ない。悪魔を飼い慣らす強靭な精神力もそうだが、天性の才能が不可欠だからだ」
醜い鳴き声を上げる召喚されたネイガウスの使い魔は、至る所に縫合痕のある、血を垂らした獣だった。其の異臭に鼻を覆う者は少なくは無く、も鼻を覆いはしないものの、其の異臭には目を細めて眉を顰めていた。
「け…げぇっ…!硫黄くさ!!!」
「あれ、屍番犬か…。…は…初めて見たわ…」
咄嗟に鼻を覆い、異臭に顔を顰める志摩の隣で、呆然とネイガウスが召喚した屍番犬を見つめる勝呂。其の眼差しは驚愕と感動の色が見え、其の異臭など気にならないといった様子だ。
「今からお前達にその才能があるかテストする。先程配った、この魔法円の略図を施した紙に自分の血を垂らして思いつく言葉を唱えてみろ」
一瞬、ネイガウスの視線が燐に向いたのをは見逃さなかった。燐も見られたの事に気付いたのだろう、不思議そうにしているものの、直ぐにネイガウスの指示に従う様に手の中にある小さな紙へと視線を落とす。授業開始早々に配られた魔法円の略図が記された紙だ。
「(…燐の事を知ってる?)」
ほんの一瞬、ネイガウスが燐に向けた視線は殺意や敵意といった類の感情の無いものではあったが、は引っ掛かりを覚える。考え過ぎだろうか、頭の中で考えつつも、不審に思われない様に他の生徒達同様、配られた紙へと視線を落とす。
「何も起きへんなぁ…」
「念じるのが足りへんのやろか」
配布された紙に一緒に渡された小さく細い針を指に突き立て、血を紙へと零し、じんわりと滲んだのなら生徒達はまるで睨みつける様に、食い入る様に紙に念じている。しかし結果は全く無く、ネイガウスの様に使い魔が現れる気配は無い。
「“稲荷神に恐み恐み白す”」
そんなとき、柔らかい風が吹いた。紡がれた言葉は神秘的なものを感じさせ、顔を上げれば長い髪を二つに結んだ女子生徒が血の滲む紙を片手に呟く。吹いた風は、まるで吸い込まれる様に魔法円の略図が描かれた紙へと集まり、女子生徒は自信満々と声を上げた。
「“為す所の願いとして成就せずということなし!!”」
途端、何処からとも無く現れる足の無い白狐が二匹。女子生徒を取り巻く様に白狐はふよふよと飛んでいた。得意げな表情で仁王立ちする女子生徒、どうやら才能があったらしい。
「白狐を二体も…見事だ、神木出雲」
ネイガウスが現れた白狐を見ながら賞賛すれば、女子生徒、改め神木出雲はより一層機嫌を良くした様で不敵な笑みを浮かべるのである。
「すごい…出雲ちゃん…。私全然ダメだ…」
「当然よ!あたしは巫女の血統なんだもの!」
何時も出雲と共に居る女子生徒、朴朔子に得意気に鼻を鳴らす出雲はとても褒められる事に気分を良さそうにしている。其の表情は何時もより輝いて見えるのは見間違いではないだろう。
「あかん、センスないわ」
出雲が使い魔を易々と召喚した事に、自分達には才能が無いのだと思い知らされ、肩を落とす男子達。どうやら男子陣にはネイガウスの言う才能は無いらしく、血が滲んだ紙が虚しく其処にあるだけだった。そんな男子達を見て、更に鼻高々と笑う出雲がには印象的だった。
「ニー」
才能があるのが出雲だけかと思われた時、不意に可愛らしい声が響く。振り返れば、しえみの持つ略図の描かれた紙から外見も可愛らしい掌サイズの使い魔が飛び出したのだ。
「それは緑男の幼生だな。素晴らしいぞ、杜山しえみ」
紙の上で、しえみに手を振る緑男の幼生は、愛らしい声を上げて飛び上がると、しえみの頬へと飛び移って頬擦りをする。しえみも緑男の幼生の可愛らしさに思わず緩い笑みを零せば、忽ち和やかな空気が流れるのだ。
「ねぇ、神木さん…」
ふと、思い付いた様にしえみが出雲に話しかけると、意外だったのか驚いた反応を見せる出雲。そんな出雲に緑男の幼生を頭の上に乗せたしえみが緩みに緩んだ笑みを浮かべて言うのである。
「わ、わわ、私も使い魔出せたよ!」
「………!!」
途端、神木の表情が一変する。ただ純粋に話題として仲良くなろうと声を掛けたしえみだったが、見るからに自尊心の高そうな出雲には逆効果だったらしい。出雲は意地悪そうに目を吊り上げると、しえみを蔑んだ瞳で腰に両手を宛がいながらやけに大きな態度で言うのだ。
「…へぇー、スッゴーイ。ビックリするくらい小ッさくて、マメツブみたいでカワイー!」
嫌味でしかない、意地の悪い言い方だった。しかし、しえみには褒め言葉しか届かなかったらしい。心底嬉しそうに真っ赤に顔を赤らめたのなら、興奮のままに紙を握り締めて出雲を見つめるのである。
「あ、ありがと!」
虐め甲斐が無いと言えば、これ程甲斐の無い人物は珍しいだろう。ネイガウスは生徒達を一度見渡せば、一人だけ未だ召喚が出来るか実践していない人物を見つけるのだ。
「、お前も早くやってみせろ」
だらりと下げた手に汚れ一つ付いていない紙を持ったに注意をすれば、しえみや出雲を見ていた生徒達の視線が一斉にへと向けられる。其れを煩わしく思いながら、は努めて自然に見えるよう薄っすらと笑みを顔に貼り付けるのだ。
「手騎士を目指している訳では無いので実施する必要は無いかと」
「何の称号を目指しているか等、今は関係ない。これは才能があるかを見るテストだ」
「尚の事、必要は無い。才能なんて有りませんから」
「才能の有り無しはテストを実施した上で私が判断する」
暫くネイガウスとの睨み合いが続く。最初に貼り付けた笑みはすっかりと剥がれており、いつもの無愛想な仏頂面が覗いている。険悪な雰囲気を一早く察知した志摩と子猫丸は、何時ぞやの暴走する勝呂を止めた時の様に素早くの両サイドに移動するのだ。
「まぁまぁ…」
「直ぐ終わりますから…」
何とも乾いた、引き攣った笑みをネイガウスに向けながら、子猫丸がの紙を持つ手を、志摩が針を持って反対のの腕を掴む。瞬時には掴まれた両腕を振り払おうとするのだが、志摩と子猫丸が懇願する様な目で強く訴えてくるものだから、渋々は受け入れるのだ。
「…自分で出来る」
掴まれた手を振り払い、溜息を吐いては己の人差し指に針を突き刺す。ぷくりと膨れ上がって滲み出た血。
「(…ただ、血を付けるだけ)」
実に憂鬱な気分だった。略図の描かれた紙を渡された時から、妙な胸騒ぎがあり、其れがの行動を阻んでいたのだ。胸騒ぎが何を予感しているのは分からない。けれど、きっと何かある様な気がしてならなかった。はゆったりとした動作で指先の血を紙へと撫で付ける。真っ白な紙にじわりと、血が滲んだ。
「うわ!」
「何これ?」
両側から覗き込む様にの血が付いた紙を見ていた志摩と子猫丸が一早く声を上げる。略図の魔法円から浮かび上がる様に黒い何かが現れ、宙へとひらひらと舞う其れを呆然と見つめていた。の呼吸が、一時的に止まった。
「綺麗…」
しえみがうっとりと、恍惚に頬を染めて其れを見た。真っ黒な羽根を持った其れが、ふわり、ふわりと舞って、の周囲を飛んでいる。黒以外の一切の色のない、美しい其れは不気味さも感じさせるものの、とても魅了される妖艶さがあった。
「…蝶?」
出雲がの周りを羽根をはためかせて飛ぶ其れに呟く。蝶以外の何でもない姿形をした其れは、時期に羽根を休める様にの肩へと止まる。其の蝶を横目に見ながら、は口腔内に溜まった唾を飲み込んだ。
「(地獄…蝶…)」
地獄蝶、其れは普段は瀞霊廷で飼育されている黒い揚羽蝶で、死神を尸魂界から現世へ案内したり、伝令を伝えたりする役割を持つ、死神には見慣れた生き物である。何故、此処に地獄蝶が。二度と見る事は無いは無いと思っていた存在が、今こうして肩で羽根を休めている事実が、を酷く困惑させた。
「…今年は手騎士候補が豊作のようだな。悪魔を操って戦う手騎士は祓魔師の中でも数少なく貴重な存在だ」
ネイガウスはの出した蝶を一瞥すると生徒達を見渡しながら授業の締めくくりの言葉を発する。皆の意識がネイガウスへと向くが、の意識は地獄蝶に向いたままだった。
「まず悪魔は自分より弱い者には決して従わない。特に自信を失くした者には逆に襲い掛かる。さっきも言ったが使い魔は魔法円が破綻すれば任を解かれ消えるので…もし危険を感じたら“紙”で呼んだ場合、紙を破くといいだろう」
ネイガウスの言葉が右から左へと抜ける。其の間も地獄蝶は相変わらずの肩に乗っており、授業は静かに終わった。解散の指示が下り、生徒達の足先は出入りの扉へと向く。
「神木さん!」
教室を後にして行く生徒達の中で、一際早く出て行った出雲の隣には朴の姿があり、其の背中を目掛けて慌しくしえみが走って追いかけて行く。あんな言われ方をしたというのに、何故あれ程元気で明るく背中を追い掛けられるのか不思議で仕方が無い。ひらり、肩に止まっていた地獄蝶が飛び立ちの目の前で旋回する。まるで何かを訴え掛ける様に、ひらり、ひらり、と舞う。
「………。」
紙を破かず、そのままに。紙をスカートのポケットに仕舞い込んでも部屋を出ようと扉へ向かって歩き出す。其の背中を静かに引き留める者が居た。
「待て、」
「…何か」
ネイガウスは屍番犬を呼び出した魔法円を踏み消しながら、有無を言わさぬ声色で呼び止める。魔法円の一部が消えた事により、煙を上げて異臭を放っていた屍番犬の姿が消え去るのを視界の端で捉えながら、は酷く億劫な面構えでネイガウスを見た。
「“其れ”は何だ」
「………?」
「お前が召喚した悪魔だ。私は今迄にそんなもの一度も見た事は無い」
「………」
「“其れ”は何だ。、お前は其れが何なのか知っているのだろう」
真っ直ぐと向けられた視線は鋭く、誤魔化しは許さないとでもいった風に威圧的だ。しかしは視線を逸らさない。最後まで部屋に残っていた、パーカーのフードを目深く被った生徒も部屋を出て行き、室内にはネイガウスとだけが残った。
「答えろ」
其の場から動かぬまま、ネイガウスはの返答を待つ。皮膚を軽く刺激する様な緊張感が漂うのは、警戒心を剥き出しにへ問い詰めるネイガウスの醸し出す雰囲気の所為だろう。は嗤った。まるで此の場の空気を一蹴する様に。
「さあ?唯の蝶なんじゃない」
一方的に話は此れで終わりだと言わんばかりには地獄蝶を連れて、ネイガウスを一人残し部屋を後にする。扉を後ろ手に閉じれば、先に部屋を出た筈の燐、勝呂、志摩、子猫丸といった男子陣が固まって立ち尽くしていた。其の集団が見つめている一点を追う様に視線を向ければ、成る程とは納得するのである。
「何だアレ…しえみがまろまゆの付き人みてーになってるぞ?」
「まろまゆ?…ああ、神木さん」
「遊んでるんやろ」
何がどうして、そうなったのかは分からない。だが、現状を見た限りで把握出来る事は、上機嫌に歩く出雲の後ろを、出雲の鞄を笑みを浮かべながら持って歩くしえみ。そして、出雲の隣で戸惑った様に困惑する朴の姿があるということだ。
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