沈んでいた意識が浮上したのは、此方へと向かってくる一つの霊圧に気付いたからだ。其れは確実にの居る部屋へと向かって来ており、しかし殺気や敵意といった感情が感じ取れない事から無害である事は分かっていた。誰が向かって来ているかなど、わざわざ目視する必要も無い。霊圧で誰が近付いて来ているか直ぐに分かるからだ。


「(………?)」


だからこそ、疑問を抱く。一体何故、何の用で此処に来る必要があるのだろうかと。霊圧は少しずつの部屋へと近付き、そして扉の前で立ち止まった。鍵は開けっ放しで、ドアノブが捻られて鈍い音を立てながら扉が開かれる。無礼な奴だ、ノックくらいすればいいのにと心の中で零す。


「―――――、」


女子の部屋に断りも無く侵入した人物は、そろりそろりと足音を極力立てずに抜き足差し足と部屋の内部へと進む。は眠った時の体勢のまま、瞼を閉ざして横たわっていた。無論、意識はあるのだが、端から見れば眠っている様に見えるだろう。そしては様子を見ていた。侵入者がこれから起こす行動を見る為に。


「―――――。」


侵入者の息遣いが微かに聞こえる。近付く足音は時期に直ぐ近くで立ち止まり、まるでを観察する様に見下ろしていた。侵入者の手が、へと伸びる。


「(………ん?)」


侵入者の手は優しくの頬を撫でると、するりと頬を伝ってベッドシーツの上に落ちる。僅かに沈むマットレスは、侵入者が付いた手に体重を乗せているからだろう。触れた頬とは反対側に今度が指先が触れた。マットレスが軋む。此処まで来れば、流石のも自身がどういった状況に晒されているか分かるというもので、分かるからこそ、其れを易々と受け入れてやる筋合いは無かった。


「何?」


ぱっちり、瞼を開けて見えたの漆黒の瞳。起きているとは思わなかったからか、侵入者は突然開かれたの瞳に大きく目を見開かせて動揺を見せた。寝起きとは程遠い凛とした透き通る声は、言葉こそ責めてはいないものの、無性に罪悪感を抱かせる。刹那、が侵入者がシーツに付いた手首を掴むと、驚いて身体を一瞬強張らせる侵入者。其の左足の付け根には素早く右足を掛けると、唯単純に力任せに押し出すのだ。に覆い被さっていた侵入者の身体が、くの字に曲がって後方に吹き飛ぶ。


「グホォッ!!」

「女の部屋に断りも無く入って…何をしようとしてた?」


床に打ち付けた背中に無様な呻き声を上げる侵入者を、は身体を起こすと髪を後ろへ手で流しながら、ゆらりと立ち上がると、侵入者の腹を跨ぐように立って威圧的に見下ろす。己を上から見下ろすを目にした侵入者、志摩廉造は、忽ち顔を真っ青にさせた。まさに、顔面蒼白である。何故、志摩がの部屋に訪れて此の様な行動を取ったのか。其れは数十分前に遡る。



















屍が侵入した騒動も落ち着きを見せ始め、朴を部屋へと運び雪男が治療を施した後、朴を除く塾生達は筆記試験を行っていた部屋に集まっていた。女子風呂が悲惨な状態になってしまった為、交代で男子風呂を使用する事になり、こうして順番待ちを各自各々好きな様に部屋で時間を潰していた時の事である。


「どうした?しえみ」


部屋の片隅で落ち着かない様子で周囲を気にするしえみに、風呂上りにと紙パックの牛乳を飲んでいた燐が首を傾げてしえみに問うた事が最初のきっかけだった。


さん、居ないなぁって…」

?」


しえみの零した声は、同じく入浴が未だの勝呂、志摩、子猫丸の耳にも届き、部屋の中を見渡す。確かに其処にはの姿は無かった。


「そう言えば屍騒動から居てはりませんね」

「アイツ何処行ったんや」


子猫丸が首を傾げれば、呆れ顔で勝呂が呟く。しえみは先に入浴を済まし、其の後に燐が入り、今は宝が入浴中で、勝呂、志摩、子猫丸が風呂待ちだった。男子の後は嫌だろうと先に女子が優先で先に入浴していたのだが、が居ない事を今更になって、すっかり忘れていた事に気付くのである。


「そう言えば奥村くんってさんとどういう関係なん?杜山さん来る前は一緒に座ってたから前から知り合いやったんやろ?」

「えっ」


志摩がふと、燐に尋ねると真っ先に反応を示したのは燐では無く、しえみだった。頬を僅かに赤らめる表情は、一体何を示しているのか分からないが、其れが嫉妬といったものでは無く、興奮している様なものだったことから、恐らく燐がと知り合いであった事に驚いているだけなのだろう。そう思えば、しえみが塾に来てから燐とが言葉を交わす姿は殆どと言って良い程に無かった様に思える。


「燐、さんと友達なの?」

「え?あー…」


興味津々と、燐に問い掛けるしえみの姿は何処か微笑ましく、尋ねられた側の燐は何だか微妙な表情だ。眉を顰め、暫く悩む様に唸った末に燐が零した言葉は、とても曖昧なものだった。


「多分?」

「多分って何やねん」


すかさず勝呂の突っ込みが入り、燐は飲み干した牛乳パックをゴミ箱へと捨てる。そして空いた席に腰を下ろすと頬を指で掻きながら、ぽつりと呟くのだ。


「友達って感じしねぇし…」

「はぁ?」


じゃあ一体何なのだろう、そう思ったのは勝呂だけで無く、勝呂の様に声に出さなかったものの皆が不思議そうに首を傾げていた。続きを促す様に勝呂が燐に目をやれば、燐は思った事をそのまま口にするのである。


「どっちかってーと、家族って感じだな。一緒に住んでたし」

「はあ!?」

「いいいいい一緒に!?」


驚愕の声を上げる勝呂と、林檎の様に顔を真っ赤にさせるにしえみに、燐は目をひん剥いて肩を跳ねらせる。まさかそんな反応を返されると思わなかったからだ。勝呂の背後には黒い淀んだ空気が浮かび、しえみは興奮した様に口元を手で覆いながら何度も瞬きを繰り返していた。


「年頃の男女が同じ屋根の下で暮らすやなんて…!破廉恥やわ!」

「奥村くん…意外と手が早いんやね…意外やわ…」


追撃といったように、子猫丸が小刻みに身体を震わせて燐に叫び、志摩も意外そうに遠い目で燐を見る。皆が同じ誤解を抱いている事に気付くと、忽ち燐も顔を赤くさせて勢い良く立ち上がればやけに大きな声で否定を訴えるのだ。


「ち、違う!そんなんじゃねぇって!!」

「じゃあ何やってゆーねん!!」

「だから!」

「そもそも同じ年の男女が同じ家におって何もならん訳が無いやろ!!」


立ち上がり、燐に食って掛かる勝呂の表情は険しい。が、其の頬が顔に似合わず赤い所を見れば、勝呂も年頃の男子ある事を示しており、其の威圧的も少しは軽減されるものだ。しかし、燐からすれば其れが余計に羞恥心を煽る。まるで病が伝染する様に燐の頬も色付き始めた頃、此の場に居なかった雪男が呆れ顔で部屋の扉を開けて入って来るのだ。


「何を騒いでるんですか?廊下まで丸聞こえでしたよ」

「奥村先生!!」


燐に集中していた視線が一斉に雪男へと向けられ、雪男は何事かと口元を引き攣らせ、たじろぐ。そんな自身の困惑を誤魔化す様に眼鏡を指で上げて見せれば、頬は赤く染め、顔色自体は青くさせるという、何とも器用な配色をした子猫丸が前のめりになって口を開くのだ。


「奥村先生は奥村くんと兄弟なんですよね!?奥村先生もさんと一緒に住んではったんですか!?」

「え?」

「雪ちゃん!そうなの!?」


突然、思いもしなかった子猫丸の問い掛けに言葉を詰まらせた雪男。其れを見て今度はしえみが追い打ちをかける。どういう流れで、其の様な話に発展したのかは分からないが、どうやら皆が誤解の解釈をしている事を聡い雪男は瞬時に理解すると、塾生達を安心させる様な柔らかい笑みを浮かべて、ゆっくりと口を開くのだ。


「一緒に住んで居ましたが、そういった関係では無いですよ。は僕達がお世話になってた修道院の神父様に引き取られて…其れで一緒に暮らしてただけです」

「ほな、」

「はい。強いて言うなら家族の様な存在ですよ」


喉を鳴らして唾を飲み込んだ勝呂に、雪男は肯定する様に頷いて微笑む。すると一斉に今度は息を吐き出す塾生達に、雪男を小さく可笑しそうに笑った。


「何や、ほな何も無かったんやなぁ」

「最初からそう言えや」

「俺そう言っただろ!?」


ほっと安堵の笑みを浮かべる志摩に続き、勝呂が燐に文句を零せば、燐は目を吊り上がらせて不満を露わにする。しえみも胸を撫で下ろしながら、びっくりした、なんて零している事から、騒いでいた理由は其の事だったのかと雪男は納得するのだ。


「あと入浴が未だなのは勝呂くん、志摩くん、三輪くんだけですか?」

「ううん、さんも未だなの。でも、何処に居るのか分からなくて…」


入浴が未だと思われる勝呂、志摩、三輪を見ながら雪男が問えば、首を横に振ってしえみが眉を下げての事を口にする。すると思い当たる所があるのか、雪男は暫し口を閉ざすと踵を返しドアノブを掴んで言う。


「多分部屋に引き篭もってると思います。呼んで来ます」

「あ、さっき私見て来たけど居なかったよ!」

の部屋は別の部屋なんですよ」


女子は三人で一室を使用しており、先程しえみは風呂上がりに一度部屋を覗いた時の事を思い出す。ベットで寝る朴の隣で看病を続ける出雲、其の横顔は酷く辛そうで見ている此方も胸が痛くなる様だった。早々に部屋を後にしたしえみだったが、よくよく振り返ればの姿は勿論の事、合宿用に纏められた荷物すら見当たらなかった事に気付くのだ。しかし、雪男の言う別室という言葉に直ぐ様、抱いていた疑問が晴れる。部屋が違うのならば、其処に居ないのは当然の事だからだ。


「ほな俺呼びに行きますわ!」


の部屋に向かおうと雪男が扉を押し開けた時、明るい声で立ち上がった志摩に皆の視線が向く。其の表情は何処か嬉々としており、やけに乗り気で勝呂と子猫丸はまたか、と顔をげんなりとさせた。志摩の悪い癖が、出たからだ。


「次の風呂は坊で俺の番は其の後やし、奥村先生も忙しいやろから、俺暇なんで呼んで来ますよって」

「はぁ…」


立ち上がり、雪男の肩に手を置いて笑う志摩に、雪男は曖昧な返事をする。女風呂を覗こうという言動もあって、下心あっての立候補である事が明白だったからだ。しかし志摩は有無を言わさぬ様に雪男よりも先に廊下へと出ると、人懐っこい笑みを浮かべて首を傾げた。


「部屋何番ですの?」

「…四階の四二三番です」

「ほな早速行って来ますわ」


軽く手を振り、軽い足取りで廊下の奥へと消えて行った志摩を、雪男は小さく溜息を吐いただけで見送った。頭を抱える勝呂と子猫丸の姿が視界の端に映るが、止める様子が無い辺り、二人はもう他人の振りといった様子で教科書を其々開き始める。燐はこっそりと雪男の隣に並ぶと、不安といった表情を隠しもせずに雪男のに耳打ちするのだ。


「良いのかよ」

「大丈夫だと思う。…兄さんだって分かってるでしょ」

「…それもそうだな」


燐の不安は、勿論女子の部屋に男子が向かったという事に他ならない。男女の力の差は歴然で、志摩を信用していない訳では無いのだが、もしも万が一、の身に何かあったらと心配しての事だった。しかし、其れを雪男は一蹴する。とても、それはとても遠い目をして。すると納得した様に頷く燐をしえみは不思議そうに眺めていた。


「アイツ…大丈夫かな」


燐も雪男同様、遠い目をして志摩の消えて行った廊下を虚ろな目で眺める。其の瞳には確かに同情といった感情が滲んでおり、ますますしえみは不思議そうに首を傾げた。志摩が立ち去った部屋で、そういったやり取りがあった事を、志摩は勿論知る由も無い。










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