夏は暑いものだ。蒸し暑い日々が続き、じめっとした湿気た空気はより一層暑さを際立たせた。何処か遠くで微かに聞こえる風鈴の音。涼しげな音を鳴らすも、直ぐに其れは至る所で鳴く蝉の声に掻き消されてしまうのだ。


「おつりの5円になります」


本日は学生達にとっては週末に訪れる最高の日、日曜日である。今頃、燐は雪男と隣り合わせの机で与えられた課題や宿題に励んでいる頃だろうか。否、真面目に机に向かい合う燐など全く想像出来やしないのだ、勉強もろくにせず雪男に突っ掛かっているに違いない。そうは確信する。実際、其の確信は正しく正解だった。


「ありがとーございましたー」


やる気のない間延びされた店員の掛け声に、自動ドアが開くと共に鳴る電子音。冷房の効いた店内から外へと出た瞬間、肌に纏わり付く様な暖かい熱にじんわりと汗が浮かぶ。


「(美味しい)」


購入したばかりのバニラバーを齧りながら、は当てもなく歩いていた。ベージュのリボンの巻かれた真っ白なキャペリンハットは肌を刺す様な日差しからを守り、惜しげも無く晒されたノースリーブのワンピースは、帽子と同じ純白で、低いヒールのサンダルもあって全体的に清楚且つ上品に際立たせる。本日のトータルコーディネートは私服は勿論のこと、私物の少ないへとメフィストが用意した洋服の一つだった。


「―――――、」


ガリッと音を立てて割れたアイスを口の中で咀嚼する。もう一口と、アイスに齧りつこうとした瞬間、微かに聞こえた其れには動きを止めた。久しく聞く声はとても悲しげで、声から伝わる其の心情は豪雨と強風に煽られた荒波の様。


「…クロ?」


夏の気温であっという間に溶けたアイスが、べちゃりと音を立ててアスファルトに落ちた。長年、会う事の無かった存在を、今になって思い出し、気付くのである。



















「ガルルルオ゛オオオォオ」


南裏門を出た先の道路には、大きな緑色の看板の上で威嚇する様に牙を剥き出しに唸る巨大な猫が居る。其の悪魔に対峙する複数の祓魔師の姿有り、隅には負傷した警備員を手当てする医工騎士の姿もあった。現場には緊迫した空気が流れており、一般人が近付けぬ様に南裏門はテープが張られて封鎖されている。そんな人気の無い南裏門の頂上、普通ならば人が登る事など出来ない高所にて、は夏風にワンピースの裾を揺らしながら状況を見守っていた。


《うそつき!》


南裏門の門番である猫又の悪魔は、眼前に武器を携えて警戒態勢の祓魔師に唸り声を上げる。そんな猫又の悪魔に銃で麻酔弾発砲する祓魔師達だが、既に大量の麻酔弾が打ち込まれているにも関わらず麻酔の効果は薄い様で、精々動きは鈍い程度だった。それも、回復が早いのだから最早お手上げとも言える。蚕神と呼ばれていた猫又の悪魔、クロ。そう簡単に一筋縄ではいかない。


《おまえたちはうそつきだ…!》


忘れていたのかと問われれば、そうだとしか言い様が無く、弁解の余地は無かった。唯の言い訳にしかならないが、何かと忙しい毎日には其処まで全く頭が回らなかったのである。真実を知った時、クロがどれ程傷付くことか。予想出来なかった訳では無かったのだが。


《うそつき!しろうはしなないんだ!しろうは、さいきょうなんだから…》


クロの悲痛な訴えは、人間である祓魔師の耳には届かない。しかし死神であるにははっきりと其の想いは届くのだ。状況やクロの訴えから見て、警備員の男が獅郎の死をつい零し、クロが其れを聞いていて暴走したのだろう。ただの推測でしかないが、強ち間違いでは無さそうだった。


「(どうしたもんか…)」


現状、どう行動する事が最善であるかは威嚇の姿勢を崩さないクロと、お手上げ状態ではあるものの果敢に迎え撃つ祓魔師を見下ろし思考した。


「(せめて祓魔師が去ってくれれば…)」


無駄に麻酔弾を発砲し続ける祓魔師達を見下ろして眉を顰めた。の存在は今の所、メフィストと雪男しか知らない。故に今、堂々と登場でもしようものなら、後々の言い訳が苦しいのは必然だった。


「面倒臭い…」


ぽつりと零した本音は誰の耳にも届く事無く風に流され消える。祓魔師達がおらず、誰の目にも触れる事なくクロと対面出来るのであれば、穏便に済ませれるのだが、クロが大人しくしない限り彼等は引く事は無いだろう。が行動をしかねていると、状況を知らされ要請されたのか、今迄姿を見せなかった雪男がクロへと向かって前へと出る。其の後ろには何故か燐の姿があった。大方、雪男の制止を聞かずに付いて来たのだろう。


《しろうはかえってくる。しんじないぞ!》


クロが雪男と燐を激しく威嚇し、唸る。其の剣幕や迫力は只ならぬもので実際他の祓魔師達は雪男と燐を残して引き上げる始末だ。


《しろうはかえってくる!それまでおれもしなないんだ!》


力強く叩き付けられたクロの尻尾は軽々とコンクリートを打ち砕き、破片と共に煙が舞う。クロが過激化する中、手出しはしないものの祓魔師達は武器を手放す事はせずクロへ警戒の姿勢を解かない。しかし、一向に雪男と燐は行動を起こさないのだから、高所で様子を伺うの元まで、そのどよめきは伝わって来た。


「(…何やってんだか)」


前に出たのにも関わらず、クロに向かって行く素振り無く雪男は立ち止まって燐を振り返り、何やら言い争いをしていた。本気でクロが暴れ出せば一刻を争う事態にも関わらず、何を悠長に余裕をかましている二人を呆れた面持ちでが見下ろしていると、結局雪男では無く燐が前に出て、クロと向かい合う。


「おいッ」


燐が牙を剥くクロに話し掛ける。しかしクロに反応は無い。眼前に武器も構えず佇む燐に敵意を向けてながら、いつでも襲い掛かれる様に上体を低くさせた。


「よぉ…俺は奥村燐。獅郎の息子だ」


名乗る燐に、ほんの少しクロの高ぶる感情が落ち着きを見せる。しかし、其れは一時的なものでしか無く、次に紡がれた燐の言葉に、クロは直ぐさま強く燐を睨み付けるのだ。


「親父は死んだよ」

「に…」

《うそだ!》


雪男の咎めにも耳を貸さず、燐は真実をクロにぶつける。しかし、はいそうですかと納得するクロでは無いのだ。その真実が受け入れられず、こうして今クロは反抗的姿勢を示しているのだから。


「死んだんだ」

《うそだ》


身体を震わせ、クロはきゅっと目を瞑り、告げられた現実から唯々目を背ける。


《うそつくなぁああ!!》


強く地を蹴り、燐へと向かってクロの猛突進。状況を見守っていた雪男を含む祓魔師達が顔色を一変させた刹那、在ろう事か燐はクロの突進を頭で受け止めた。頭蓋骨と頭蓋骨が衝突し、鈍い音が響き、目をひん剥いて呆然と口を開ける雪男。其の場に燐では無くクロが倒れ、度肝を抜いた雪男は最早言葉すら失っていた。


「…お前はさ…親父が大好きだったんだろ。だから、ただ悲しかっただけなんだよな」


頭突きに顔を歪める事もなく、涼し気な表情で燐はクロに話し掛けた。其の姿に、は今は亡き愛しい人の姿が見える。


「俺もお前と一緒なんだ。仲直りしようぜ」


獅郎と重なる言葉に、クロに手を差し伸ばした燐が、まるで獅郎の様に見えた。


「…やっぱりアンタの息子だよ」


歪な笑みがに浮かぶ。悔しいと思う反面、嬉しい気持ちが胸に渦巻いた。己の表情は実に滑稽なものだろう、悟って顔を隠す様に帽子を僅かに下へと下げる。誰もの存在に気付いていないのだから、気付かれる筈も無かったのだが。


《しろう》


が燐に獅郎を重ねた様に、クロもまた燐に獅郎を重ねたに違いない。


《しろう》


クロの瞳が涙で潤み、浮かんだ雫に視界が歪む。


《しろう、しんじゃったのか…》


遂に大量の涙が溢れ出し、巨大化していたクロの身体が元の小さなものへと変わる。其処らの猫と変わりない大きさへと変貌したクロに燐は驚きながらも、伸ばした手は其の儘だった。


《しんじゃったのか…》


声を上げてな泣きじゃくるクロは、只ひたすらに獅郎の名を呼び続けた。困惑する燐はクロと雪男を交互に見やり、雪男や祓魔師達は危機は免れたと安堵の息を吐く。其々が事後処理の為に行動を移し始めた面々を見て、も踵を返そうとした時、クロは突如泣くのを止めて涙で濡れた瞳で燐を見上げた。


は…?》

「え?」


耳に掠めた名にの動きが止まる。燐は突然出た良く知る少女の名に目を丸くして聞き返せば、クロは燐に歩み寄って焦燥の眼差しで尋ねるのだ。


は?も、しんじゃったのか?》


クロの言葉が分からない雪男は、何事かと燐に目で訴え、燐は困惑した様にクロを見下ろし音を出さない口をぼんやりと開けている。大人しくなったクロに慌ただしく動き回る祓魔師達は、そんなクロと燐、雪男の様子に気付く事は無かった。


…》


返事の無い燐に、クロの瞳からは再び涙が溢れ出す。其れはクロがの死を思っての涙である事に気付かない程、は鈍くは無かった。このまま放っておけば振り出しに戻るだろう。幸い、祓魔師達は立ち去った者もおり、残った面々は己の作業に手一杯といった様子で周囲の様子に気付いていない。は意を決すると、其の高所から静かに足を踏み出した。


「クロ」


静かに地へと降り立ち、涙ぐむ小さな猫の名を呼ぶ。勢い良く振り返る燐と雪男は何処から出て来たんだと驚きのあまり間抜けな表情を晒している。そんな突然登場したの姿に嬉しそうに表情を和らげるのは一匹だけだった。


!》


小さな四本の足を懸命に走らせ、クロは飛び付く様にの胸へと駆ける。しっかりとクロの身体を抱きとめるは慣れた手つきで頬擦りするクロの背を優しく撫でた。さながら、飼い主とペットの微笑ましい和やかな光景に呆気に取られる双子の兄弟。先に我に帰ったのは雪男で、続いて燐が驚愕の声を上げるのである。










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