静かな夜の京都の洛北金剛深山では、祓魔師達が総出となり不浄王の菌塊と格闘していた。炎を用いて地道ながらも確実に森を侵食する腐を焼き払う。其の遥か上空では、どういう原理か宙に浮くソファーがあり、其れに優雅にも寛ぐ派手な格好をした男が一人。


「“不浄王”は腐の王が五匹従えるペットのうちの一匹。頭脳こそないが物質界に与える被害は天災クラスになるだろう」


闇色の空に広がるは漆黒の雲。ゴロゴロと唸る音と共に空一面を覆い隠さんとばかりに空に広がる。そんな決して良いとは言えぬ天気の空で、男、メフィストは鼻から垂れる雫を紙で拭い、ソファー同様、宙に浮くゴミ箱へと其れを投げ捨てた。


「人間が蟻のように群がったところで果たして倒せるものかね…ククク…いよいよ雲行きも怪しくなってきたな」


菌塊の一部が飛び、メフィストを襲うが、其れはメフィストに触れる前に彼が指を鳴らして出現させた傘によって遮られる。傘に触れた瞬間、小さな音と共に起こる白い煙。迂闊に触れるのは得策では無い事が窺えた。


「いや」


メフィストは己の顎髭を撫で付けながら、にんまりと笑みを深めて真下の惨状を見下ろす。赤い炎が菌塊を焼き払う其の遥か向こうに見える、圧倒的な威力と勢いで燃ゆる黒き炎。ゆらゆらと揺らめきながら菌塊のみならず無事な森の木々すら飲み込む炎はまるで地獄の業火にすら映る。其の炎の上を飛ぶ、漆黒の着物を纏った異質の存在。


「人間の中に混じる神次第…でもあるな」



















灼熱の黒炎が生む熱気が頬を撫でる。淡い光を放ち飛び散る火の粉も、目を瞑ってしまいそうになる程の激しく燃ゆる炎も、総てが途轍もなく懐かしい。絵元結をした黒髪が背中で揺れる感覚も、刀を振るう度に柄頭から伸びる長い二本の帯紐が視界の端で見え隠れするのも、靡く袖と裾も、まるで遠い昔、未だ“生きていた”あの頃にでも戻ったような錯覚をさせる。否、勿論変化はあるのだ。己は未だ“生きて”いるし、肉体はあの頃に比べると幼い。同じの様で、同じじゃない。歴然とした、差。


「(…グリムジョーは雪男と合流出来たかな)」


形を持たない菌塊も、奥へと進めば進む程に明確に其の姿を変化させた。まるで洋風の建物の様に姿を変え、腐らせた森の中に聳える。元は菌塊なだけあって、其の建物に足を一瞬でも着ければ、姿を変えて襲って来る為、は地上は進まず上空、霊子を固めた足場の上を行きながら、黒焔柳の炎をもって突き進む。


「(戦いにくい…)」


黒焔柳の炎は、始解の解号の通り、無差別に総てのものを跡形も無く焼き尽くす。地上の祓魔師達を巻き添えにしてしまわぬ様、一足先に奥へと突き進み菌塊を焼き払うが、一歩間違えれば菌塊に侵されていない木々まで一緒に燃やしてしまいそうになるのだ。其の微調整が何気に難しいのである。


「火の結界…?」


トン、トン、と固めた霊子の上を飛びながら突き進んでいれば、何処からか上がった輝きを視界の端で捉える。まるで打ち上げ花火の様に空へと向かって伸び、周囲を包み込むように広がる其れは、直感的に此れ以上、不浄王の被害を拡大させない為の結界である事を悟るのだ。結界が放たれた方角に意識を向ける。感じられた霊圧は三つだ。


「(燐と、勝呂…?)」


どうやら燐の解放に成功したらしい。燐に結界を張るなどという技術は無い事から、結界を張ったのは勝呂だろう。近くにクロの霊圧もある事から、大方クロの背に乗って此処まで来たといった所か。は大きく斬魄刀を振るう。振るった軌道から放たれるは灰も残さず焼き尽くす黒炎。菌塊が、また焼き尽くされる。



















一方、祓魔師達が不浄王の菌塊を焼き払い進軍する方面から少し外れた森の中では、喰らった悪魔を自らの身体に憑依させ、より強力な悪魔の力を手に入れたが故に人間の姿からは外れた藤堂と、雪男が対峙していた。憑依させた悪魔が火属性故に水属性の水精の恩寵を受けた魔法弾を雪男が放ち、藤堂は痛々しい程の出血を顔面から垂れ流すが、高級悪魔を憑依させた藤堂には下級悪魔の魔法弾は大して効果が無いらしく、余裕の表情は未だ崩れず、止めどなく雪男が放つ魔法弾を軽やかに躱すのだ。


「君、趣味はあるかい?」

「…は!?」

「夢でもいいよ」

「ふざけるな…!」

「ああ、そういえば君、医師志望だったね。高校は特進科に通っていたっけか。お義父さんも医師免許を持っていたもんなぁ。その年で医工騎士と竜騎士の称号を取るのは、さぞ大変だったろう。どちらもお義父さんが得意とした称号だ」


銃弾の軌道に身体は掠りもせず、唯々魔法弾だけが減っていく。コートのポケットからハンカチを取り出し、顔の出血を拭う藤堂は銃を構える雪男を視界に入れる事すら無く、ただ至極簡単そうに銃弾を躱した。


「しかし君を導いてきたお義父さんは死んでしまった。君にはもうお兄さんしか残ってない。これでお兄さんがいなくなってしまったら、君には何が残るんだろうね」

「黙れッ」

「君の人生はお義父さんの敷いたレールの上をひた走る人生だ。お義父さんはお兄さんを特別扱いしてきた。だが君へはどうだ?幼い頃から祓魔師になる為の厳しい忍耐を強いてきた筈だ。君はお兄さんを守る都合のいい道具として育てられただけじゃないのかい?」

「違う!!!!」


藤堂の語り掛けに徐々に雪男の冷静さが奪われ始め、銃弾は藤堂のハンカチを射抜くものの、其れ以降、弾は藤堂に当たる事も掠る事も一切無い。


「はは、当らなくなってきたね。心は正直だ。当然だよ、なぜ自分は兄の為にこんな事をさせられているんだと今までに何度も考えた事だろう。当のお兄さんは君の苦労なんて知りもしないのに」


藤堂は柔らかい表情で、けれど冷ややかな温度の瞳で雪男に言う。的確に、雪男の心に突き刺さる言葉を選んで絶えず語り掛け続けるのだ。


「君、本当はお兄さんが大嫌いだろ?」


自然と強張る雪男の表情に、確かな手応えを感じて藤堂はほくそ笑む。そして顔を俯かせ、銃口を下げた雪男に戦意喪失したと捉えた藤堂が銃弾を避ける為に動かせていた足を止めた。瞬間、交わる強い意志の篭った雪男の瞳。刹那、藤堂は気付くのだ。自身を中心に円を描く様にして記され、光を放つ魔法陣に。


「!!いつの間に…!」


雪男が詠唱を唱えれば、クスクスと笑いながら魔法陣から身を表す水精。水精は藤堂を取り囲む様にして佇み、其の中央で藤堂は感嘆の声を上げた。


「成程、的を外しているようにみせて、その水精の魔法弾で水精召喚の魔法円を描いていたとは…君は本当に優秀だ」

「僕は兄が好きだし嫌いだ!…だが、それ以上に弱くて小さい自分が大嫌いだった。僕が本当に大嫌いなのは僕自身だ!!」


はっきりとした声色で、力強くそう言い放ったのが合図だったかの様に、水精の水牢が藤堂を包む。酸素の無い水の中に閉じ込められ、息が出来ずにもがき苦しむ藤堂を確認すれば、悪魔召喚に体力を消耗し、立っていられなくなった雪男は肩で呼吸をしながら其の場に膝をつく。だがしかし、藤堂の笑い声が聞こえ顔を上げれば、藤堂の火力の方が強いのか、水牢はすっかり蒸発して半分以上が既に消え去っているではないか。


「やるなぁー!!手騎士の称号を持たずに、よくこれだけの水精を召喚出来たものだ…!だが、まだ拙いね」


藤堂から放たれる強い熱風。水牢は弾け飛び、其の衝撃は雪男ですら吹き飛ばす。宙を飛ぶ雪男の身体は生えていた立派な木の幹に勢い良く打ち付けられ、衝撃で眼鏡は吹き飛び、手から銃が離れる。藤堂は素早く飛び、雪男の上に伸し掛かって其の首を絞めると、最早攻撃の手段を失った雪男に最後の言葉を投げ掛けた。


「いや、君は思った以上に面白い。だが残念だな、一旦ここで死んでもらおう。はてさて人間一人灰にするのに、どの位かかるのか、ちゃんと時間を計っておかなければね」


にこりと最後に微笑んで、ぶわりと藤堂の身体から溢れる炎。首を絞めて抑える反対の手から其れは放たれ、雪男へと襲い掛かるのだ。目を見開いて藤堂の炎が己の身に襲い掛かるのを雪男が為す術もなく見ていた瞬間、雪男の瞳が蒼く変化し、一瞬、藤堂の動きが止まる。と同時に、藤堂の肉体が勢い良く真横へと吹き飛んで雪男の視界から一瞬にして消え去るのだ。


「っ…!!?」


首にあった圧迫感は消え失せ、反射的に首を摩りながら上体を起こす。そして手は其の儘、上へと伸びて目の下に落ち着くのだ。指先が震えるのは身体が震えている為。其れは殺されかけた恐怖からでは無い。唯、何故だか見える世界が青い事に動揺しているのだ。


「(何だ…何だこれは!?どうなってる僕の目は…!)」


依然として視界は青く、明らかに己の身に何かが起きている事を物語る。そして同時に雪男は困惑しながら目の前に立つ男を見上げるのだ。白い着物を靡かせ、腹部には大きな穴を開けた水色の髪をした人間でも悪魔でも無い“彼”が、藤堂を蹴り飛ばした瞬間をしっかりと雪男は見ていたのだ。


「(どうしてが召喚した悪魔が此処に…?)」

「おい、てめぇ」

「!」


妙に威圧感のあるグリムジョーを、雪男は呆然と見上げる事しか出来ずにいた。徐々に視界は青から本来の色へと戻り始めるが、グリムジョーの髪から目が離せずにいたのは、“青”に過剰反応しているからなのかもしれない。


「死ぬんじゃねぇぞ。じゃねぇとアイツがうるせぇからな」


言わずもがな、グリムジョーが指すアイツとはの事だ。何故此処に居るのか疑問ではあったが、が指示したのだろうと悟り、雪男は口腔内に溜まっていた唾を飲み込む。


「君を面白いとは思っていたが…過小評価過ぎたかもしれないね。それは、君の目ではないな」


藤堂が吹き飛んだ先、其の消えた茂みから、顔面に負った傷すらも殆ど修復した藤堂が、雑草を踏みしめて現れる。藤堂の視線は真っ直ぐと雪男に向いており、雪男の表情は自然と強張るが、藤堂は深く雪男の瞳について追求する事はせず、雪男の前に佇む何処と無く機嫌の悪いグリムジョーへと、緩い笑みを向けるのだ。


「それに君は…見た事ない種の悪魔だね。とても良い蹴りだった」

「俺は悪魔じゃねぇ」


眉間に刻まれる深く皺。今にも聞こえてきそうな舌打ち。不機嫌にもなるだろう。彼は悪魔などではないのだから。


「俺は破面アランカル。グリムジョー・ジャガージャックだ」


この時、初めて彼は此の世界に来て己の名を名乗ったのである。右顎を象った仮面を着ける端正な顔立ちの水浅葱色の髪の男、グリムジョー・ジャガージャックは、此の世界には明らかに浮いた不思議な存在だった。其の風貌も、口調も、雰囲気も、空いた腹の穴も、纏う白い着物も、腰の刀でさえも、何一つ馴染むものが無い。“異質”其れこそ正に、一番しっくりとくる。藤堂はグリムジョーを全身隈無く観察すると、血走った瞳でグリムジョーを射抜き、にたりと口角を吊り上げた。


破面アランカル、か…。聞いた事が無いね。ところで、君が私の相手をするつもりかな?奥村くんと代わって」

「の予定だったがな」


其の口振りは、まるで予定が変更されたとでも言うかのようで。藤堂が疑問を口にする前に、其の疑問は解消される。藤堂の首筋に深く突き刺さる炎を纏った錫杖。吹き飛ぶ身体は受け身もままならず茂みに突っ込み、口元から大量の血を吐き出しながら藤堂は笑った。


「おや、今度は君か。執念深いなぁー。よくここに私がいると判ったね、志摩くん」

「あんだけハデに火ィ使っとれば誰でも判るわ!…このタヌキ爺…!!」


錫杖を構えて現れたのは、普段とは打って変わり怒りに表情を歪ませた柔造で、彼の後に続き、彼の率いる部隊の祓魔師達が茂みの中から身を現す。中でも最も屈強そうな肉体を持つ中年の男が雪男の保護に当たり、他の面々もグリムジョーを気にしながらも一先ず視線は藤堂へと向けていた。


「貴様は俺の大事なモン目茶苦茶にしよったんや…!灰も残さんから覚悟しとけ!!」









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