其の日は久々に見る悪天候だった。突き刺す様に真っ黒な雲から降ってくる土砂降りの雨。荒れた波は高い波を作り、小さな船は荒れ狂う海に何度横転しそうになった事だろう。流石に平常心で居られるはずも無く、舵を切って何とか動き回る波を乗りこなし、嵐が早く去るのを祈った。痛い程の雨に髪も服もびっしょりと濡れ、身体は冷えた所為か寒気さえ感じたが、しかし状況が状況故に風邪を引くだとか、そんな思考は一切浮かばず只々頭をフル回転させ、身体を動かす。風邪何処の話ではない、此の海に喰われるという事は死を意味するのだ。悪魔の実の能力者だから、という訳ではなくとも、どれだけ泳ぎが得意な人間でも、この海では溺死するだろう。そう容易に想像出来る程に、酷い海だった。


「こんな所で…!」


死ぬわけにはいかない。未だ死ねない。己の胸に強く抱いた決意と願望を支えに、とっくに感覚が無い指先に力を込める。すると前方、突如海面から船が現れた。潜水艦らしき形をしたその船は、この荒れた海の中を突き進んでいたらしい。何を思って海面に上昇してきたのかは分からないが、は咄嗟に動き出した。舵を手放し、今持てる最大の力を足に込め、十分な助走から一気に飛ぶ。潜水艦に飛び乗るというのは反射的な考えに依る、咄嗟の行動だったわけだが、其れは正しかったに違いない。背後では先程まで乗っていた小船が波に呑まれて姿を消したのだから。は唾を飲み込んだ。


「!!!」


音で現すなら、ざぶん。其れが適切だろうか。小船を呑み込んだ波が潜水艦をも呑み込もうと襲い掛かってきたのである。甲板に居たの身体は一瞬にして波の中へと消え去り、波は粗方周囲に襲い掛かると一気に潜水艦から引いていく。波が引いて露になった甲板には、頭からぐっしょりと海水を浴びたが身動きを取ることもままならずうつ伏せになって倒れていた。もしも再び波が襲ってきたのなら、次は波と一緒に海の中へ引き摺り込まれてしまうだろう。にはもう力が残っていなかった。


「(っ…動け、今踏ん張らないと…死んじゃう…!!)」


力の入らない身体を叱責し、何とか上体を起き上がらせる。兎に角潜水艦の中に避難しなければ。この身体で、この状態で船を略奪出来るだろうか。否、奪わなければ死ぬだけ。此処で死ねない。強く下唇を噛み締め、は正面を向いた。霞んだ視界に、二つの影がある事に其の時初めて気付く。


「(………ヒト…?)」


焦点が合い、徐々にクリアになっていく視界。其処で見たのはオレンジ色のつなぎを着た大きな身体の北極熊の様な白熊、そして其の白熊を従わせる様に佇む、パーカーを着用した大きな刀を持つ異様に人相の悪い男だった。ぞくり、背筋が凍る様な錯覚を覚える。本能が、此の男を相手にしてはいけないと告げていた。


「お前…」

「…来るな、」


目付きが悪いのは生まれつきのものなのか、やけに鋭い目で見下ろされるのが酷く不愉快だった。ヒールをコツ、と鳴らせて一歩此方に近付いて来た男に思わず拒絶の言葉が零れる。


「来るな!!」


また一歩、近付いて来た際に声を荒げ、流れるような手付きで素早くコートの胸元に手を入れれば、愛銃を取り出し素早く構える。グレイマンの銃口を真っ直ぐ男の頭に向け、此れ異常近付けば撃つと威圧した。が、どうやら男には効果は無いらしく、表情は微塵足りとも変化は無い。


「そんな力も入ってねぇ手で撃った所で当たらねぇよ」

「…やってみなきゃ分からないでしょ」


引き金に指を掛け、銃口は男から動かさない。小刻みに指先が震えるのは、今にも倒れそうな身体を何とか持ち上がらせている所為か。勿論その震えは目の前の男に恐怖しているからではない、単純に身体に力が入らないのだ。其の原因に先程波に呑まれた悪魔の実を食べた事に依る代償のダメージが一番大きいが、其れが無くとも長時間の死と隣り合わせの航海、全身で受け続けてた土砂降りの雨が確実にの体力を消耗していったのである。


「ベポ」

「アイアイ!キャプテン!」


故にの思考や反射神経は、完全に鈍っていた。気付いたのは首に感じる鋭い痛み。前のめりになって倒れる身体、傾いていく視界には男が相変わらずの出で立ちで佇んでいる。甲板に身体が打ち付けられると同時に自分の後方に視線をやれば、先程まで男の後ろに控えていた白熊が何時の間にか自身の背後に回って腕を構えていた。手刀をされたらしい。完全にの不覚だった。


「キャプテン、此の子どうする?」

「とりあえず中に入れる。いつ波が襲ってくるか分からねぇからな」

「そうだね。すごい嵐だし…」


腹に腕を回され、持ち上げられる体は、すっかり水分を吸収しべったりと張り付いた毛皮に寄り添うようにして抱えられた。普段の触り心地の良い毛の感触は今は無い。冷たい、そう感じながら一足先に潜水艦内へと向かって行く男の背中を最後に捉えた。長身の男は、一度だって此方に振り返る事無く、さっさと船内へと入っていく。途端、強く轟きが空気を震わせ、眩い光が空を照らした。空から雷が落ちてきたのだ。


「急げ」

「アイアイ!」


酷くなる一方の空と海。第二波が控えている様で遠く離れた所から、じわじわと其の大きさを拡大させた波が真っ直ぐ此方に向かって来ているのである。顔だけ覗かせた男に力強く白熊は返事を返すと、白熊は腕に抱えたをぎゅっと強く、しかし優しく抱き締め直し、軽く甲板を蹴った。其の揺れが更にの瞼を重くさせ、はもう駄目だと悟った。


「ちょっと揺れるけどゴメンね」


意識が闇に落ちる狭間で聞こえたのは、其れが最後の言葉だった。次に目が覚めた時、自分は未だ生きているだろうか。五体満足で目覚める事が出来るのか。もしかすれば目覚める事は叶わないかもしれない。こんなにも呆気なく終わってしまうのだろうか。逃げなくては、まだ、まだ、こんな所で諦める訳には。必ず帰るのだ、あの世界に。


「(―――――おかあ、さん…)」


落ちる寸前に脳裏に浮かんだのは母の姿だった。何故母の笑顔が浮かんだか、何故母だったのかは分からない。しかし、兎に角言える事はどうしようもなく恋しかったと言うことだけである。










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