死んだと確信した筈なのに、確かに生きている自分自身には激しく困惑した。目が覚めて最初に見た物はくすんだ色をした天井で、次に違和感を感じて左腕を見る。腕には細いチューブが繋がれており、其の先には透明の液体が入った袋が吊るされていた。其れが点滴である事が分からない程、は無知では無く、死にかけ、死を覚悟した己がこうして未だ生きており、治療されている現実に激しく動揺するのだ。


「………っ」


誰がこんな事を、そう考えるまでも無く、この処置を施した人物は明白では上半身を起き上がらせると、乱暴にチューブの先端に繋がっている己の腕に突き刺さった針を引き抜いた。其れだけでは満足出来ず、感情のままに点滴を吊るす鉄の棒を蹴り倒す。


「………、」


乾いた音を立てて床に倒れた点滴。其の袋に書かれた文字が何を指すのか分からないが、自分が倒れた原因が栄養失調だとか、そういった類のものならば、この液体の中身は人体に必要な栄養物質だろう。この身体に足りない栄養素を、チューブを通し、針を通って血管に直接流されていたに違いない。でないと、こうして身体が動く訳が無いからだ。


「目が覚めたか」


低いテノールの声が鼓膜を揺らし、は其方に視線を向ける。意識を失う前には無かった筈の簡易ベッドが部屋に持ち込まれており、其の上に寝かされていたは掛けられた布団をそのままに扉を背に佇む男を見た。意識を失う前に見た男が、変わらぬ調子で、変わらぬ雰囲気で其処に居た。目の下にある隈は相変わらずで、其の鋭い眼力は衰えを見せない。


「…何の真似…?」

「出来る処置は全てしておいた」

「…何でこんな事をしたの」

「病名は栄養失調と脱水症だ。後は安静に三食しっかり食う事だな」

「無視…してんじゃないわよ!」


勝手に話を進め、部屋を後にしようと背を向けた男には怒声を上げる。男はドアノブに掛けた手を止めると、顔だけ振り返りを鋭い視線で見た。


「…あんた達、何がしたいの。あたしを捉えて、どうする気」

「そんな事を聞いてどうする」


に再び向き直る男には奥歯を強く噛み締めた。結局、の問い掛けに男は何一つ答える気が無いのが分かったからだ。


「何で殺さない…。どうせ殺すなら、今殺しなさいよ!!」


死にたい訳ではない。自殺願望も勿論無い。しかし、こうして自身を捉えた得体の知れない人間達に世話をされるのはどうしても許せなかった。どちらにしても殺されるのなら、今すぐ手を掛ければいいのにと、思った。


「お前は忙しい奴だな。死ぬ気が無いと言った割に、死にたがりか」

「うるさい!!」


弱り果てた身体は思う様に動かず、はよろけながらもベッドから降りれば、一気に男との間合いを詰めて其の胸倉を引っ掴む。海楼石の枷の所為で力が入らない両手は、男の着る服に皺を寄せる程度の事しか出来なかった。


「何であたしを捉える!?殺す気なんでしょ!じゃあ殺せば良いじゃない!其れとも海軍に引き渡す?良い金になるものね!!」


掴んだ胸倉を揺らし、は感情のままに声を荒げた。されるがままで身動き一つ取らない男は感情の無い瞳でを見下ろすだけで一言たりとも発する事は無い。其れが更にの感情を混沌とさせるのだ。


「何か言いなさいよ!!あたしを、どうするつもりなの!!答えてよ!!」


皺が寄せた胸倉を、渾身の力で握り締める。小刻みに震え出した拳は次第に身体全体をも震わせ、は俯いた。其れを見て男は面倒臭そうに息を吐けば、最早力の入っていない手をいとも簡単に振り払う。


「寝ろ。お前に言う事はそれだけだ」

「………っ!!」


男は今度こそ振り返らず其の場に立ち尽くすを置き去りにドアノブに手を掛ける。すぐさまが再び男に向かって手を伸ばすが、無情にも男は素早く外へと出て、重たい扉を閉ざす。


「待ちなさいよ!待って!開けてよ!開けて!!」


握った拳で何度も扉をノックする。拳と枷が扉を何度も殴るが扉は開かないどころか、其の向こうに人の気配すら感じさせない。扉を打つ皮膚は次第にただれ、血をにじませたのなら、ほんのりとの鼻に血の匂いが掠めた。


「開けて!出して!此処から出して!出してよ!!」


何度ノックしても扉の向こうからは反応は無く、人の気配も無い。虚しさや惨めな感情がを支配し、はついに其の場に崩れ落ちた。ずるずると扉を伝って落ちた両手は真っ赤な血で染められ、痛々しい傷を作っている。


「嫌…嫌だ…誰か…」


床に落ちた掌を強く握り締めれば、すっかり伸びた指先の爪が掌に食い込み、また傷を生む。扉に額を押し付け、は下唇を血が滲むまで噛み締めた。


「たすけて…」


は懇願する。誰も助けてくれないと分かっていながら誰かに向かって助けを乞うた。勿論、誰も助けに来ないと分かり切っているのに。



















次に目が覚めた時、目の前に見えたのは矢張りくすんだ色をした天井で、左腕には点滴が再び施されていた。またか、とうんざりしながら点滴を引き抜けば、栄養物質が入った袋を吊るす棒を掴み、力任せに壁に向かって投げ付ける。ガシャン、と派手な音が鳴り、自身の感情を抑えるように小さく何度も深呼吸を繰り返した。


「あ!目が覚めたんだね!」


すっかり聞き慣れた声が部屋に響き、扉の方へと視線を向ければ、今日もオレンジ色のつなぎを着用する白熊、ベポの姿がある。ベポは床に倒れた点滴を見るなり、飛び上がって手にしていた桶とタオルを放り投げると慌ててへと駆け寄るのだ。


「ダメだよ!まだ点滴もして寝ていないと…キャプテンが絶対安静だって言ってた!」

「…あたしが、」


どれくらい眠っていたのだろうか。其れぐらい喉はすっかり乾いていて掠れた声が出る。しかし以前と比べて身体が僅かだが軽く感じるのは、身体の中に必要な栄養分が其れだけ注入されたといことだろう。


「助けてって、一言でも、頼んだ?」


俯きながら出た声は、思った以上に重苦しいものでベポは息を飲む。


「でも…」

「でもじゃない」


眉を下げ、困った様に縮こまるベポを冷たくは責める。何一つベポから害を与えられている訳では無かったが、其れでも怒りは収まらない。


「迷惑」


部屋に静寂が訪れ、ベポはついに項垂れた。俯いた顔は、浮かべている表情すら確認する事が出来ない。くしゃりとつなぎを握り締め、ベポは耐える様に其処に立っていた。其れを軽蔑する様には見下ろすと、自身に掛けられていた薄手の布団を投げ付ける様にして振り払えば、軽い音を立てて掛け布団はベポの顔に当たり、ずるりと床へと落ちる。ベポの身体が小刻みに震えた。


「出て行って」


冷ややかに放った言葉はベポの全てを拒絶する。しかしベポは其処から一歩も動かず、更に身体を震わせてつなぎを皺くちゃになるまで握り締めた。そして、勢い良くベポが顔を上げる。其の顔は、其の瞳には、大粒の涙が流されていた。


「馬鹿!!!」


は思わずギョッとして、目を大きく見開く。ベポはほろほろと涙を流し、ふっくらと柔らかそうな毛皮を濡らして、床に一粒、また一粒と水滴を落とす。


「自分を大切にしない奴なんか大嫌い!!!」


ベポは眉を吊り上げ、今までに見せなかった怒りを露わにして飛び出す様に部屋を出て行った。勢い良く開け放たれた扉は派手な音を立てて閉まり、ベポが持って来ていた桶とタオルが床に転がったまま残される。


「………。」


妙な居心地の悪さと、変な罪悪感がの胸の中で渦を巻いた。何となしに床に落ちた掛け布団を拾い上げてから床に降り立ち、転がった桶とタオルに触れる。お湯で濡らしたのだろうか、未だ生暖かいタオルが指先を刺激した。


「(なんなの…)」


特に意味はない。桶にタオルを入れて部屋の隅に置いたのなら、簡易ベッドに腰を下ろす。じゃらり、相変わらず腕と足に繋がれたままの枷と鎖は身体を酷く怠くさせ、は薄暗い窓を見上げた。


「(泣きたいのは、こっちの方よ)」


気が弱そうな、あの白熊が初めて見せた怒りの感情。流した涙に困惑したのは、ほんの少し悪い事をしたと自分でも思ってしまったからか。じゃらり、鎖が音を鳴らす。


「(あいつ等らあたしを拘束する…あたしは被害者…)」


まるで自分に言い聞かせる様に、暗示をかけるように心の中で何度も呟く。そうしないと、今にも自分が崩れてしまいそうだったから。


「(相手は敵、みんな敵、この世界にあたしの味方はいない、全員、敵なんだ)」


誰にも心を許さない。誰にも助けを乞わない。誰にも近付かない。誰にも近付けさせない。自分は間違っていない。自分は悪い事など何もしていない。自分は正しい。自分は当然の事をした。何度も何度も、は心の中で唱えた。



















あれからベポはの監禁されている部屋に訪れる事は無かった。代わりに日替わりで他の船員達がの元へと三食の食事を運んで来る。勿論は其の食事に手を付ける事は無く、以前同様食事は冷め切って戻される日々だった。


「ベポが泣いてたぜ。お前何言ったんだよ」

「………。」

「はぁ…。なぁ、せめて飯くらい食えよ。うちのコックが何で食べてくれないんだって今にも発狂しそうなんだって」


今日の当番はキャスケットを被った船員らしく、男は床に胡座を掻いて帽子の上から頭を抱えた。相変わらず飲食を拒み続けるに、どう接したら良いのか分からなくなって来たのだ。


「…また夜に来るよ」

「………。」


昼食を置いて、キャスケットを被った男は渋々部屋を後にする。部屋には出来たての食事が良い匂いを漂わせており、空腹の胃が胃液を出し、口の中には唾液が出た。しかしは食事に手を出さないどころか視線すら其方に向けない。窓の向こうは相変わらず暗闇で、暫くずっと海に潜って進んでいる様だった。









「自分を大切にしない奴なんか大嫌い!!!」









ベポがあの日、自分に向けて言い放った言葉がの脳裏を何度も過る。後悔している訳では無い。しかし、何の感情も生まれていない訳でも無い。は徐に今日もまた床に置き去りにされた食事に目を向けた。今日の夜には撤去されるであろう食事はまだ湯気を上げており、言わずもがな良い匂いを放っている。


「………、」


暫く食べ物を口にしていない事を考慮してか、胃に優しい食材で調理された食べ易さを全面に考慮した料理。座っていたベッドから下りるとマットのスプリングが静かに軋み、床の上を歩くのが久すぎて少しよろける。初めて触れた食器は、出来たての料理の温もりが伝わって、ほんの少し温かかった。



















「飯持ってー…え?」


夜になり、キャスケットを被った男が夕食をの元へと運びに来た。お盆を片手に持ち、錠の掛けられた部屋を押し開け、男が目にしたのは床に置かれた昼食。ほんの少し、三分の一だが量が減った其れに間抜けな声を出して瞬きをする。何度も見ても明らかに減った量に男は呆然とした。添えたスプーンは僅かに汚れていて、がついに食事に手を付けた事を表している。


「お前…食ったのか!?」

「………。」


男には答えない。しかしその沈黙を肯定と捉えた男は思わず手に持った夕食を落としそうになった。驚愕と感動に体を震わす男を横目に一度見はするものの、直ぐに興味を無くしてはぼんやりと窓を眺める。


「死ぬ訳にはいかないから」


ぽつり、が零した言葉に男は我に返り、ベッドに腰掛け、窓を見上げるを見た。窓から差す僅かな明かりを受け、憂いな表情を浮かべる姿は何故だがとても神秘的で美しく見え、男は何時の間にか見蕩れていた。


「生きて、此処から逃げる」


真っ直ぐな芯の通った声で言ったは、窓から視線を逸らし、未だ扉の前で立ち尽くす男を見た。男は静かに息を飲み、お盆を持つ手に力を込める。嫌な汗が男の背筋を伝って流れた。


「邪魔するなら、アンタ達だって、殺して逃げるから」


ごくり、音を鳴らして生唾を飲み込めば、男は不恰好な笑みを浮かべて床に夕食の乗った盆を置く。何時もなら其処に胡坐を掻いて暫く話してから立ち去るのだが、今日は座る事も無く、少し量の減った昼食を下げて素早く部屋を後にするのだ。後ろ手に扉を閉め、慌てて鍵を掛けると男は漸く肩に込めていた力を抜く。


「…やべぇよ、あいつ…」


男は盆を持ちながら、一人とぼとぼと通路を歩いた。薄っすらと額には汗が滲んでおり、鮮明につい先程見た光景を思い出す事が出来た。生に縋る余りに生気を失った光の無い瞳、感情無く淡々と紡がれた言葉は良く斬れる刃物の様で、同じ空間に居ることすら苦痛に感じる程のものだった。男は肺一杯に吸い込んだ酸素を一気に吐き出すと、厨房に繋がる扉を押し開ける。落ち込んだコックの姿が其処にあるのだが、下げてきた盆を見せると、少しだけ食された食事を見て、まるで天にも昇る様に喜び飛び跳ねるコック。騒ぐコックを他人事の様に眺め、男は静かに厨房を後にした。脳裏にはあの不気味な雰囲気を漂わすの顔が、浮かんだまま消えそうになかった。










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