禁城で暮らす事に正式な許可が下り、宛てがわれた一室は、数有る部屋の中でも質素な方なのだろうが其れでも豪華で派手で、家具も相当な値打ちなものばかりで埋め尽くされていた。備え付けられている長机には山の様に巻物の書物が積み上げられ、一つ抜き取れば崩れ落ちてしまいそうな際どいバランスを維持していた。


「(そう言えば今ってどれくらいなんだろ)」


トラン語の解読、研究は此処での主な仕事だった。紅明の夜伽や側室といった名目及び位置付けではなく、トラン語を専門に扱う“官吏”としては此処に存在する。真っ白な紙面に文字を綴り続ける毎日、暖かな陽気が窓辺から差す昼下がり、不意にの手が止まった。


「(白龍に会えでもしたら、腕が有るか無いかで大体の時間軸は分かるんだけどなー)」


今が一体どの時期なのか、情報を得る手段がには無かった。アラジンとアリババ、モルジアナはもう出会った後なのか、カシムの出るバルバット編は、マグノシュタットやアル・サーメンの話は。せめて白龍に会えれば一目で大体の時期は把握出来るのにと、凝り固まった肩を回しながら、暫し休憩と筆を置いて伸びをする。


「(そう簡単に遭遇する訳ないか)」


白龍が金属器を手に入れるのはシンドリアに留学に行っている時期だ。其の頃に腕を失い義手となるので、彼の腕が未だ健在ならば時間軸は其の前に当たる。もっとも、此の世界がマギの世界だとしても、漫画通りに全てが進む確証は無いのだけれど。


「此の国には休暇ってものは無いかねぇ?」


羽根を羽ばたかせ、やって来た白く輝くルフに人差し指を突き立てれば、指先に止まって羽根を休める不思議な存在である其れに笑みが零れる。四六時中トラン語と向き合い、休暇なんて存在せぬとでも言わんばかりに毎日運ばれてくる書物。CAの頃から決まった休暇は無かったが、其れでも休暇は必ずあった。ブラック企業さながら、過労死させんばかりの煌帝国に勤め先を誤った気しか起きない。


「(そう言えば…アラジンとティトスが初めて会った日、ルフが騒めいてたっけ)」


マグノシュタット編で見た、マギとマギの分身体の彼等の出逢いのシーンは、とても美しかった記憶がある。ルフが輝き、まるで二人だけの空間が出来上がった様な、そんな絵だった。


「お願いがあるんだ」


指先で羽を休めるルフに話しかければ、ルフは羽をはためかせ、周囲のルフが集う様にやって来る。の目には部屋に充満する光り輝く其れはとても眩しく見えたのだが、他の者から見れば唯の独り言を呟く奇妙な女しか見えないのだろう。


「ジュダルと玉艶に此れから先、出逢った時、騒がないで欲しいの」


騒ぎ出せば一貫の終わり。ルフを常時見え、集わせる事は非魔導士には出来ない芸当だ。ジュダルや玉艶には気を付けなければならない。彼等はマギであり、見る事が出来るのだ。特に、玉艶には細心の注意が必要だろう。


「できる?」


確認する様にルフへと問えば、ルフは頷く様に一斉に羽ばたきだす。散り散りとなって飛び出し離れていく姿は、ほんの少し寂しいが、其れでも物分かりが良いルフ達に安堵した。殺伐とした室内、書物に向き合う気が起きず高い天井を意味もなく仰ぎ見る。染み一つ無い綺麗な天井。其処に墨汁を一滴零した様な黒い点が視界に入った。


「黒い、ルフ…」


其れは墨汁でも無く、点でも無く、ルフであり、黒いルフはひらひらと、舞い降りてはに近寄る。


「(ジュダルが近くに…?)」


煌帝国で黒いルフと言えばジュダルだ。堕天した後ならば白龍もだが、きっと白龍は未だ堕天していない、そんな気がする。


「恨んだって、意味ないのにねぇ」


白にルフが多い中、たった一羽で飛ぶ黒いルフが可哀想で、手を伸ばす。翻した手の平に収まる様にゆっくりと下降して止まった黒いルフをまじまじと見つめた。何処からどう見ても、白が無い漆黒の色で埋め尽くされている。


「折角貰った命なんだし、笑って生きて欲しいなぁ」


無意味だと理解しつつ、黒いルフに呟いて、其の羽を指の平でそっと優しく撫でた。撫でた矢先、黒いルフの身は淡い光に包まれ、黒が白へと変わっていく。


「…黒いルフって白いルフに戻せないんじゃなかったっけ…?」


其の身を真っ黒な闇の色から、眩く輝く純白へと変え、ルフは手の平から飛び立った。原作でも触れられていた黒いルフを白いルフに戻す方法は、未だ未解明のままだった筈。遠い記憶を手繰り寄せている間に白いルフとなった黒いルフは窓から飛び出し、晴天の空へと消えて行った。嗚呼、そう言えば戻せないとは原作では言っていなかった。モガメットがアラジンに頼んでいただけだった。


「(いよいよ自分が何者か分かんなくなってきたなあ…)」


椅子の背凭れに盛大に身体を預け瞼を閉ざす。すると物凄い速度でやって来る睡魔は今すぐにでも意識を奪い夢の世界へと誘おうとするのだ。


「ま、いっか」


唯でさえ疲れている脳が余計に疲れるのを感じ、早々に思考を放棄して仕事も投げ捨てて寝台へと飛び込んだ。少しだけ、少しだけ仮眠。自分にそう言い聞かして肌触りの良い布団に顔を押し付けた。化粧をしたままだが、少し寝るだけなのだから良いだろう。睡魔に抗いもせずに意識を手放そうとした瞬間、部屋の外から何やら話し声が聞こえた。


「本当に此処にいるのー?」

「はい。今日は未だ外へは出られておりませんので…」


話し声と足音は、気の所為で無ければどんどん近付いて来ており、嫌な予感が過る。実際は今日一度も部屋から出ていなかったのだから、予感は余計にだった。埋めていた顔を上げ、視線だけを扉へと向ける。話し声はピタリと止まり、ノックも声掛けもなく開かれる扉。嫌な予感は的中だった。


「お前が?」


顔周りの髪だけを長く伸ばした、一見女にも見える可愛らしい顔立ちした、彼。生で見るのは初めてだったが、紙面では何度も目にしていた人気登場人物。笑みを浮かべて佇む彼に重たい瞼を押し上げては精一杯の笑みを贈った。


「はい、と申します。お初にお目に掛かり光栄で御座います、紅覇様」



















殿、入りますよ」


紅覇が突然来訪してから数刻程経った頃、今度は一声掛けられてから開かれた扉。今日は珍しく訪問客が多い。そんな事をぼんやりと考えながら、入室するなり驚いた表情をする彼を紅覇と共に微笑んで迎える。


「明兄だー」

「紅明殿だー」


寝台に寝そべるの傍らには、胡座を掻いて座る紅覇が居り、長いの黒髪を何本にも分けて三つ編みをしていた。奇妙な髪型にも勿論目が行くが、其れよりも衝撃的だったのは一人で居るものだと思っていたが紅覇と居た事である。其れも、何やら親しげな様子で。


「紅覇…何故此処に?」

「炎兄も明兄もズルいよねー。なかなか会わせてくれないから自分で来ちゃったじゃん」

「何処から私の噂を聞いて遊びに来てくれたんだよ」


紅覇曰く、煌帝国では最近とある噂が流れているらしい。“トラン語を解読出来る夜伽の女が官吏として採用された”と。其れだけならばまだしても、更に其の女は紅炎と紅明に贔屓されており、元々は唯の国民で娼婦であったとまで一緒に伝わっていくものだから、噂はあまり良いものでは無い様だ。官吏や女官の間で囁かれていた噂は、遂に皇子にあたる紅覇の耳にも届き、興味を示した彼は今日、わざわざ己の足で此処まで出向いてきたという訳である。


「私や兄王様は殿を贔屓したつもりはありませんよ。他は事実ですが」

「でも娼婦だったなんて何処から漏れたんだろうねぇ」

「事実を知るのは私と、殿を連れて来た官吏だけですから、官吏が喋ったのかもしれません」

「行き成り出世したを妬んでるだろうしぃ」


噂の根源であろう官吏の顔が脳裏に浮かぶのは、だけではない。禁城の一室に部屋を設けられてから一度も顔を見せなくなった官吏は、きっと今頃また何処かで噂を知らぬ誰かに囁き、を陥れようと模索しているのだろう。


殿は心配していないでしょうが、過去にどんな職をしていたとしても煌帝国には貴女の知識は必要です。今更追い出す様な真似はしません」

「心配するもなにも不安にも思っちゃいないよ。別に娼婦だった事も隠してた訳じゃ無いからさ」

「そうやって堂々としてる、僕結構好きだしぃ」


念の為にと告げた紅明に、心配は無用だと笑い掛ければ、上機嫌な紅覇が編んでいた三つ編みを完成させて他の三つ編みの束を纏める。


「すっかり仲良くなったみたいですね」

「仲良しだからね」

「「ねー」」


互いを見やって笑う姿は実に微笑ましいもので、息の合った返事に紅明は小さく笑った。巨大なしがらみが多い中で常に気を張って生きている紅覇が、こんなにも心を開いて笑っているのが嬉しかったのだ。


「そうだ!聞いてよ明兄ぃー」


不意に身を乗り出して口を開いた紅覇に、何事かと首を傾げる紅明。すると紅覇は片手にの髪を持ちながら、もう片方の手を軽く上げて息を吐き出した。


「僕が態々此処まで出向いてやったのに、の第一声何だったと思う?」

「さぁ…何と言ったんですか?」

「“お初にお目に掛かり光栄で御座います”って、寝転んでだらけながら言ったんだよ。信じられないしぃ」


むっと頬を膨らませるものの、其の表情は何処か楽しそうにさえ見える。きっと紅覇は一目見た時からを気に入ったのだろう。個性的で堂々とした女性を紅覇は好むからだ。しかし、だからとはいえ己よりも地位ある者が訪問してきた時に其の様な対応は頂けない。誰もが皆、紅覇と同様の捉え方をする訳では無いからだ。


「貴女という人は…。貴女らしいと言えば貴女らしいですが」

「酷な労働続きで疲れ果ててたんですう。ちょっと寝ようとしてた時に来た紅覇殿が悪いんですよぉ」

「普通起きて挨拶するもんだろー」

「面倒臭くって」


けれど、とは言えど本気で忠告せずに苦笑してしまうのは言っても無駄だと分かりきっていたからかもしれない。何時も悠々と笑い、掴もうと思えばひらりとすり抜け、稀に見せる真面目な表情は背筋が自然と伸ばされてしまう紅炎とはまた違った迫力を持つ彼女は、きっと彼女が思うがまま、感じるがままに振る舞うのが一番彼女らしく、似合っているからなのかもしれない。


「にしても紅覇殿、手先が器用だねぇ」

は髪が長いから弄りがいがあるから楽しいしぃ。何もしないの勿体無いよ。折角女の子なんだしぃ、やっぱりオシャレしないとさ」


纏めた複数の三つ編みの束を、くるりと巻き上げて止め、出来上がったシニヨンは、鏡で見れば美容師顔負けの出来上がりである。素直に感心して、自分には到底出来ない仕上がりに褒め言葉を送れば、得意げな表情で天使の笑みが返ってき、咄嗟には振り返って紅覇を強く抱き締めた。


「可愛い。ホント可愛い。マジ天使。食べちゃいたい!」

「じゃあ食べてみるうー?」


思いもよらぬ、乗り気な言葉。挑発的で誘いとも取れる文句に一瞬目が点になるも、は直ぐさま表情を引き締めて紅明を見やった。


「夜伽の浮気なら許される?」

「良いんじゃないですか?」

「良いんだ」


そして此方も思いもよらぬ返事。煌帝国は現代の日本では考えられない価値観所有している様だ。現代では絶対に通らぬ奴隷制度を採用しているくらいなのだ、当然とも言えた。


「其れで何か用?一昨日受け取った碑文の解読なら其処に置いてるけど」

「相変わらず仕事が早くて感心しますよ」


そしてそもそも何故紅明が訪れたのかが気になり、思い当たる点を先手を打って告げたなら、いそいそと紅明は机へと向かい、積み上げられた書物の一番上に置かれた、未だ真新しい巻物を手に取る。広げて記された文字を簡単に目を通せば、満足な仕上がりだった様で紅明は巻物を巻き直し、手に抱える。そして代わりに、持ち込んでいた新たな書物を机におけば、明らかにはげんなりとした。


「今後はトラン語だけでなく、政治、軍略についても学んで頂きます」

「どっちも私、関係なくない?」

「今後関係があるんですよ」


にっこりと笑みを向けて来る紅明に、険しい表情で遠回しに拒絶の姿勢を取るが、紅明は一蹴しての希望を汲み取らなかった。


「念の為、聞くけど。冗談よね」

「私が冗談を言う様に見えますか?」

「マジで過労死するわ」


肩を落とし俯くを面白がって紅覇は笑い、紅明は小さな笑い声を上げた。寝台へと歩み寄り、視線が合う様に膝を曲げて紅明はに止めを刺す。


「煌帝国の為に貴女には沢山役立って頂きますよ」


其れにはついつい、笑ってしまったのだ。だからこそ、皮肉な笑みを携えて優しい彼に嫌味を放つ。


「飼い殺し?」


すると彼は予想通りの優しく穏やかな笑みを浮かべて、ふるりと首を横へと振った。


「いいえ、期待しているだけですよ」


其れが嘘か真かは、言うまでも無い。










BACK | NEXT

inserted by FC2 system